就活で自殺する人/「雨上がりの虹」について

 

 

今年の就活が始まる

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就職活動シーズンが幕を開けた。今年は人手不足が叫ばれる中、学生たちにとっては売り手市場と言われている。その中でも、準備不足の人、気後れしてしまう人はいるであろう。成功してしまえばよいが、売り手市場と言われる中では、周りは次々と行き先を決めていき、失敗するのは自分に問題があるのではないかとかえってプレッシャーが強くなるだろう。また、不況時など就活戦線が厳しい時期に当たり、不本意な選択となった方にとっては、その時の情勢次第で難易度が劇的に変化し、多くが自分自身の問題に帰着させられる状況を歯がゆく思うことがあるかもしれない。

私の考える心構えとしては、学校の試験のように比較的明確な基準で努力が報われる世界ではなく、感情や偶然も入り交じるビジネスの世界の入口であること意識すること、日本の企業社会のイニシエーション(通過儀礼)との側面とうまく付き合うことである。知り合いの伝手がある、インターンシップ等で売り込んでおくといったことは邪道なものではないし、過程にやや不合理に思う部分があるにしても一時期の経験と思って誠実に対応していく

 

降りて、死んだつもりで、生きてみる

上でちょっと偉そうなことを言ったが、実は私は新卒一括の就職活動を経験していない。大学院に進学した後、卒業(修了)が迫る時期には、具体的ではないものの、卒業式(修了式)の日に自殺するということをよく考えていた。実際は卒業式(修了式)がとても楽しく晴れやかな気分になるものであったので、通り越してしまった。

当時を振り返ってみると、学生としてはそれなりに適応し成績もとっていたが、ビジネスの世界で競争力を持つ準備できておらず、その自信もなく、競争から「降りたら死ぬ」との意識の下、降りるのではないかとの不安があったように思う。また、ナイーブな頃で、上に書いたような割り切りがなく、自分を偽って人格が潰れてしまうとの不安もあったように思う。

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昨今の「働き方改革」の高まりは、電通での不幸な事件が背景にある。その事件に際して書かれた上の記事には、共感するところがあった。就活をクリアしたとしても、「降りたら死ぬ」ゲームは続いている。このゲームは消耗するし(バートランド・ラッセル「幸福の獲得」第3章では「踏み車を踏み続ける」と形容されている。)、降りずにいられ続ける人も少数である。このプレッシャーを感じるようになった時点で限界が近づいてきている。降りることの不安は、降りた後の人生をイメージできない、イメージしても悲観しかできないことで高まる。この緩和には、少し逆説的かもしれないが、降りた後の人生をもっと具体的・現実的にイメージしてみることも有用と考えている。

私の場合、卒業式を楽しさでいつの間にか通り越してしまい、できた時間の余裕を使ってボランティアをやってみた際に、自分にできることも多いなと自信が出てきた。また、地方に数か月いた際に、自分が東京で囚われていた人生イメージと根本から違うステップをイメージして進んでいる人を多く目の当たりにし、相対化された。近くの人に能力や成果が勝たなくても、自分の力の範囲で十分に貢献し喜んでもらうことができる。降りた際、少し距離のある知人から幾分悪意のある評価や噂話がされるかもしれない。言いそうな人を具体的にイメージしてみると、別にお前なんかのために生きているわけではない、となる。このような思いを抱くと、目の前の目標や仕事に取り組むことに集中できるようになり、何とか自分なりに充実した仕事ができている。

 

降りる恐怖で押しつぶされそうなときは、降りてもとりあえず半年くらいは頑張って生きてみよう、せっかくだから降りたときにしかできないこともしてみよう、といったことを考えてみるのはどうだろうか。もちろん、今の場所で活躍できるにこしたことはない。必要もないのにあえて降りることはない。 

 

「雨上がりの虹」について

さて、冒頭で取り上げたラフスケッチは、「雨上がりの虹」というアニメーション企画の冒頭のシーンだ。もう何がきっかけだったか憶えていないが、少なくとも5年以上前からTwitterで相互フォローしてきた方が一人で会社を立ち上げて制作しているようで、承諾を得て引用させてもらった。話の主人公は、就活はうまくいっていないけど、母親にはうまくいっていると電話で話し、自室で首を吊る。そこに羽の生えた不思議な少年がやってくる。この先どうなるのだろうか。興味を抱いた方は、以下の公式サイトと暫定版の紹介動画をご覧いただけたらと思う。

雨上がりの虹(公式サイト)

アニメ『雨上がりの虹』(暫定版)(今後完成版が出来次第消します)

 

どんな方が特に楽しめる?

どんな作品もターゲットというか、特に楽しめる層というものがあるだろう。「雨上がりの虹」について、個人的にこんな方は特に楽しめるのではないかと思ったのをいくつか挙げてみる。

武富智浅野いにお作品が好き

武富智作品は上に挙げた短編集(第3集まで刊行している)のように、絵のタッチや空気感が近いように思う。浅野いにお作品は絵のタッチは異なるが、宮崎あおい主演で映画化された「ソラニン」のように、人生に悩みがちな若者の悩みについて、特に解決が示されるわけではないけど言葉が連ねられて一定の共感を呼ぶという印象を持っている。これらの作品が好きな人は、「雨上がりの虹」のテーマや世界観に馴染みやすく、楽しめるのではないか。

 

進路選択で悩んでいる、悩んだ経験がある 

私が連想して上で体験を書いたように、目下就活で不安を抱きながら頑張っている方、思い詰めている方、来年以降の就活で不安を抱いている方、過去苦労した経験があり人生の中で大きな位置づけとなっている方などは、今後の展開が気になるのではないか。自分の経験と突き合わせてみて、より深めることができないだろうか。

 

技術に興味ある

制作者のTwitterによると、このアニメーションは独自技術を使っているとのことであり、技術に興味のある方はその点に注意を向けてみるといいかもしれない。一人でもアニメーションを制作できるということであれば、 初音ミクなどのボーカロイドで楽曲制作の裾野が広がったように、アイデアを形にする手段が増えるかもしれない。絵自体はある程度描けることが前提のようだが、ゲームのようにキャラクターの生成などと組み合わせてスマートフォン上である程度動きのある芝居を作ることができるようになれば、気軽にアニメーションを投稿ができるようになり、SNS世界が変わるかもしれないと思った。

 

クラウドファウンディング募集予定とのこと! 

制作者のTwitterによると、「雨上がりの虹」制作に当たってはクラウドファウンディングで制作資金を募るとのことである。この点も新しい試みである。詳細は公式サイト等をみてもらいたい。

雨上がりの虹(公式サイト)

 

 

「ポリアモリー」ほか、最近の言葉

遅くなってしまったが、前回の記事で予告したとおり、新聞を通して興味を持った言葉、「ポリアモリー」「セルフネグレクト」「ポスト真実Post-truth)」について取り上げてみたい。今年に入っても改めて言及されることが多く、目新しさはなくなってきてしまったかもしれない。

「ポリアモリー」について

ポリアモリー 複数の愛を生きる (平凡社新書)

ポリアモリー 複数の愛を生きる (平凡社新書)

 

「ポリアモリー」は直訳すれば「複数愛」であり、昨年芸能界を騒がせた浮気や不倫とは異なり、三名以上の者が相互に合意の上で築く親密な関係をいう。上の書籍では、ポリアモリーの概念、種類、アメリカでのムーヴメントの経緯などが解説されている。このような「ポリアモリー」、新聞の書評欄で言及されているのがきっかけだと記憶しているが、私が興味を引かれた理由は、学生時代に大人3人で家庭を形成するブログ記事を書いたことがあるからだ。 

blog.goo.ne.jp

上の書籍では、冒頭でポリアモリーを扱った小説として江國香織「きらきらひかる」が参照されているが、登場人物の個人の譲れない志向が前提にあって展開される話である。他方、上記のブログ記事では、個人としての生き方、愛に対する価値観といった志向は二の次に、現代日本における経済的事情から適応的な生活スタイルとして語ったものである。衰退が進む時代、稼ぎ手1人では家計を維持できない、共働きは時間や環境面で家庭との両立に難しさがある、そこで2名の稼ぎ手と1名の家事担当者で生活を維持する、というものだ。

「草食系男子」といわれるように、性愛についてそもそも興味が薄い、淡泊な若者像が多く広がる状況もある。性愛も生活の一部として殊更忌避するわけではないが、重きを置かない、個人的な志向は「二の次」として生活を営む。契約結婚を描いた「逃げるは恥だが役に立つ」が昨年大ヒットしたように、このような角度から焦点を当てても面白いのではないか、と思った次第である。

また、上記の経済的問題は現在「働き方改革」として盛んに議論されている状況にある。この機会に解決が図られない場合にどのような現象が出てくるか、といった問題提起という側面も出てくるかもしれない。合計の収入はどれくらいで、家の広さはどのくらいで、間取りはどうするか、子供を想定した場合どうなるか、保険はどのようにかけるか、など現実問題を考えていくと楽しみは尽きない。

 

セルフネグレクト」について

セルフネグレクト」とは、自分自身の生活維持の意欲を放棄し、健康や安全を損なう状況を作ってしまうことをいう。ゴミ屋敷の例を中心に、以前から用いられてきたようであるが、最近知るに至った。近代以降の法律は、基本的に個人は自身の利益を追求し、自身にあからさまな不利益なことはしないだろう、という発想で設計されている。しかしながら、自暴自棄という言葉があるように、この前提が崩れる場合があり、既存の制度では掬われず、問題になりがちだ。色々な対策や援助は考えられており、どのような状況で陥りやすいかを知ることは、対処する上でも重要だ。

だが個人の問題としては、結局のところ、自分以上に自分のことがわかり、なおかつ責任を負える者はいない。「自分を引き受けなければならない」というのは、社会に生きる上で覚悟をすることのひとつと考えている。そして、「自分のため」というのは意外と脆くて弱い。突き詰めていくうちに「空っぽだった」と苛まれるし、意欲が衰えたときに支えられるものがない。他者や共同体との関係で自分を位置付け、義務の部分をうまく織り込みながら、自分の不安定な部分を補い、生活を続けていく。これも同じように学生時代、ミスターチルドレンの曲に合わせてブログ記事に書いたことがある。

blog.goo.ne.jp 

 

ポスト真実Post-truth)」について

ポスト真実Post-truth)は、昨年イギリスのオックスフォード辞書が1年を表す言葉として取り上げたもので、客観的真実より、個人の感情や願望が優先される状況を示すという。今年も1か月経ったが、世界の政治状況が語られる際に、この言葉が繰り返し使われるようになっている。事実ではなく印象論で世界全体が振り回されている。インターネットが発達して「本音」が明らかになるともいわれているが、往々にして自分のみじめさや辛さを覆い隠すために出てくる、自分自身をも偽った言辞であり、真実でも本音でもない。

悲惨な歴史の上の教訓として形成されてきた原理原則、共通理解と考えられてきたものが崩れてきて、分断して一方の層の価値観だとして敵視すらされようとしている。かといって現状の否定だけで目下の課題の解決策が出されているわけでもない。自給自足では維持できず、相互の友好的かつ安定的な関係が利益になるという大前提も、目の前のわかりやすい部分で不利だと印象を与える行動は許されなくなってきているように感じる。悲惨な歴史を繰り返すことは避けなければならない。このような状況下での処世術は、わかりやすく好意的なパフォーマンスを相手にすることである。だが、理屈を意図的に曲げるのは、時流が変わった場合に誹りを受ける覚悟なしにすることではない。戦うべき場合というものがあり、そのような動きもみられる。

翻弄されてしまいがちになるが、大元にある、再分配の機能不全などの問題の解決策を考えていかなければならない。個人的には、グローバル化と都市化は似ている感じがしていて、都市化の場合よりも能力的なハードルが高く付いていけない者が続出し、地理的な縛りがなく抑えも効きづらい、という特徴が加わったように捉えているが、これもイメージである。 

ペルソナ4 ザ・ゴールデン PlayStation (R) Vita the Best

ペルソナ4 ザ・ゴールデン PlayStation (R) Vita the Best

 

「人は真実ではなく見たいものを見る」「その象徴としてのテレビ」というテーマは2008年にオリジナル版が発売されたテレビゲーム「ペルソナ4」で扱われている。親が望む進路と反発(雪子)、自信が持てるものがない(千枝)、周囲からのイメージと自分とのギャップ(りせ・完二)などなど、青少年が悩みがちなテーマにも答えている。このゲームは私の中でJRPGの最高傑作と思っているので、紹介する。