私は国歌を歌う

小学生の頃、夏休み、親戚の家。九州の田舎で、響く虫の鳴き声。畳の匂いがする。襖の上に飾られているいくつかのモノクロのポートレート写真。その中で、若い男性が笑顔で写っている。私が気になって見ていると、母から説明があった。

「ああ、○○おじさん、戦争で軍隊に行って亡くなったのよ。生きていたら、きょうとか、あなたに会えて、喜んでくれたでしょうね。」

続いて祖父の家に行き、泊まる。元電気技師で、あまりお喋りではなく、感情も表に出さず、朴訥とした感じの祖父。ある夜、同じ部屋で寝ていた父と母が話す。

「お祖父さん、うなされていたみたい。」「ああ、昔から、ときどき戦地に行ったときのことを思い出して、あるんだ。」

自分の手で、また目の前で、人の生き死に関わる出来事があったらしい。

家族でこんな話題が出てくるとき、締めの言葉は、決まって次のようなものであった。

「仕方ないね。」

 

 

ある時期から、学校の入学式や卒業式で国歌が流れるようになった。私は全くためらわず、大きな声で歌っていた。今はこういう式典の機会はないが、特に変わらず歌うだろう。私の中では、先に述べた私の家族の歴史や記憶と、国旗国歌の類のものは、別のことである。

ただ、大なり小なり悲しい家族の歴史や記憶を負い、あるいはそれに接する人がいて、それを国旗国歌と結びつける人もいれば、無能な指揮官個人と結びつける人もいれば、結びつけない人もいるだろう。もちろん、悲しい家族の歴史がない人もいるだろうし、あっても受け継いでいない人もいるだろう。この国は、そんな人たちが集まって暮らしている。

 

 

高校の頃、入学式や卒業式の国歌斉唱で絶対に立たないクラスメイトがいた。彼は理系の天才肌で、数学の問題もパッと見ただけでだいたいの答えの見当がつき、そこに向かって解いていくというタイプだった。普段の口数は少なく、社会のことにあまり興味があるようにも見えなかったし、何か主義主張のあるようなタイプにも見えなかったので、意外に感じていた。

進路選択の時期、私は文系に進んだのだが、彼がこんな話をした。「お互いの場所で日本のために頑張ろうね」と。彼は大学でも1年生から研究室に呼ばれるような感じで邁進し、久しぶり検索してみると、日本の研究機関に所属し、最近もサイエンス誌に論文載せているようで、しがない月給取りに収まった私より、ずっとずっと国に貢献し、今後も続けていくだろう。

当時から今まで、私は彼にどんな事情があったのかは訊かなかった。どんな事情があったからといって変わるわけではない。どうでもいいことである。国にどのようなかたちで貢献していこうと考えるかも、人それぞれである。私は国歌を歌う。彼は歌わなかった。それだけである。