ファンタジーの効用

夏の盛り、実家に帰って、置きっぱなしだった学生時代のプリント・ノート類や書籍の片づけをした。その中から、中学生の頃から構想していたオリジナルのファンタジーの話を書き留めたメモが出てきたので、PCに打ち込んで整理した。当時好きだった地中海の歴史をベースに、異能力バトルあり、国同士の政治的駆け引きあり、時空を超える因縁ありで我ながら面白い展開で、非常に楽しい時間であった。自己完結の愉しみだけど、いつの日か形にできればいいなと思う。

そんな体験をした中で、先日、ドラクエの映画を楽しんだことを書いたのだが、インターネット上では過剰ともいえる批判に支配されていて、意外な思いをしたことが思い出された。

 

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この映画では、最終バトルにおいて、ストーリー外から「なにゲームに熱くなっているんだ、いい加減大人になれ。」みたいなことを言われる展開があるのだが、これが観た人に非常に強いショックを与えるようである。映画ではこの敵を打ち破ってストーリーに戻るのだが、あまりにショックが強すぎてこれが映画の結論のように思った人も多くいるようだし、 映画で展開された敵を打ち破る理論は陳腐で納得できないと思う人も多くいるようだ。それほどショックが強くなるのは、大人が熱を入れるのはおかしいと本人も実際思っており、これに目を背けて楽しんでいて、図星を突かれたようになるからかもしれない。私が特段ショックがなかったのは、別に堂々と楽しんでよいと思っているからかもしれない。その違いとして、大人にとってのファンタジーの効用について少し考えを進めてみることにした。

ファンタジーが子供っぽいという印象を生むのは、大人は、仕事、社会や家庭における現実の問題を解決していくことが責務であるという感覚が背景にあると考えられる。空想に耽るのは現実逃避という見方になる。しかし、ファンタジーは世界観や設定で空想が入ることはあれど、ドラマが展開される以上、現実の問題と関わり合う部分が必ずあるし、人々を惹きつけるためには、違和感を感じさせ過ぎないことも重要である。表現する上で現実と空想を調和させていくという作業が必ずある。そして、その作業は、世界観の構築という大掛かりなものだ。

ファンタジーに接する上でこれらの過程に思いを馳せてみれば、現実の中で何が重要であるのか、空想で飛び越えた現実の要素を埋めるには何が必要であるのか、といった観点から考えが突き動かされ、日々の生活のアイデアの源泉になる。また、子供の頃に没入した体験を振り返り、対比するなどして、自分がどういうことに惹きつけられるのか認識するきっかけになる。そして、広く人を惹きつけていくものは何なのか、理想と現実をどのように調和させて、組織や体制を構築していくのか、といったことにもつながってくる。私自身、しばらくファンタジーから離れていると、味わいたいなという感覚になり、楽しんだ上で世界観など色々なことを考えてみると、頭がフレッシュになる感じがする。

そして、ドラクエの映画の「ユア・ストーリー」は、ドラクエ5を楽しんだことがあることを前提に、こういう展開にしたい、といったプレイヤーの希望を踏まえて進められるという世界観が付け加えられている。そこでは、単純に用意された世界に受け身で没入するだけでなく、まさに上記のファンタジーを表現する作業に加わるということでもあり、ひとつ大人側の楽しみ方が付け加わったとみてよいのではないか。

 

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先の記事で、私だったらグランバニア王としての立場にクローズアップして、最終決戦でラインハットと共闘したいなということを書いた。他にも、本編でも深く掘り下げられていない「妖精の国」の成り立ちや天空世界や魔界との関係などにクローズアップして、ひとつのストーリーを展開することもできよう。

これでも納得できないのであれば、ペルソナ4ゴールデンのアニメでは、「世の中クソだ、なに青春ごっこやってるんだ。」という敵の話を主人公が論破できず殴りつけてねじ伏せるという展開だったのだが、それはそれで面白いという受け方をしており、同じように逆ギレ上等でラスボスを殴り飛ばす感じで楽しむ、ということもあるかもしれない。

ともあれ、これだけ多くの人が惹きつけられている以上、ファンタジーは単なる逃避とかではなく、ポジティブな面があるのは確かであって、その側面を考えてみるのがよいであろう。