法学部の学生時代から、日記・エッセイ・小説等を書いているブログです。
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「おうぎフォーミュラ」ほか

「おうぎフォーミュラ」  

最近は「多数決」について関心がよく向けられているようにみえる。私が思い出したのは「終物語」である。(※ネタバレ注意)数学のテストで不正が行われたとの疑いをもった女子生徒が、学級会を開き犯人探しをする。議論をするものの犯人は見つからず、業を煮やした彼女は多数決で犯人を決めると言い出す。すると議論に辟易していたクラスメイトの多数が彼女が犯人と挙手をする。彼女は以後不登校になり、司会を任されていた主人公は、これらの現実と教師の振舞いに絶望する、という話である。

主人公はどうしたらこの事態を回避できたであろうか。ひとつ考えたのは、「未解決という現時点での解」を認めることである。元々犯人探し自体、クラスの大多数にとっては大して興味のないことで、数学のテストの点数に命を懸けている当該女子生徒の執着で学級会が行われていた。議論をするにしても、わからなかった時点で「きょうはここで学級会を終わりにする」かどうかを多数決にかけて決めてしまう。「今後新しい事情が判明した場合に、再度学級会で議論をする。」ことも合わせて決めれば、彼女の執着を完全に切り捨てたわけではないことを示しつつ、むやみに蒸し返される危険も少なくなるように思う。

このように考えると、女子生徒の誤りのひとつは「結論を急ぎすぎた」ということである。今回問題になったのが「数学」であったことは因縁深いように思う。学校でやる数学の問題には答えがあるもので、解を急ぐことにもなりやすい。もうひとつの誤りは、多数決において「嫌悪感からの選択もなされる」ことを念頭に置かなかったことである。議題について積極的に支持したい選択肢がない、あるいは何でもよいという場合に、嫌悪感の表明として選択がなされやすい。

多数決の原体験(1)~中学時代の敗北~

ここで私の学生時代の多数決の体験について振り返ってみたい。中学2年の文化祭、私はクラスの企画責任者の役回りで、展示企画のテーマを決める場に立っていた。今の時代なら、インターネットで大学を含め他の文化祭の企画などを調べて、より具体的なイメージを作って臨むことができるが、当時は本を見つけるにもお小遣いから電車賃を使って都心の大きな図書館に行くのがやっとであった。

私はあるテーマが内装の統一感も出せて魅力的な企画になるだろうと考え、支持をしていたのだが、最後の多数決で負けてしまった。選ばれたテーマは漠然としたもので、手を挙げた人たちは部活等でクラスの企画にはあまり参加しない人たちが中心であった。最終的にチームに分けて思い思いの展示を作って形にはなったが、成功だったとはいい難い。多数決で負けたときは悲嘆に暮れたもので、親しかったクラスメイトが、選ばれたテーマの際に悪戯っぽく笑って挙手した姿は今でも覚えている。

これは結局、私が推進していたテーマへの拒否の投票であったように思う。ただその結果、具体的に煮詰まっていないテーマが選択され、その後の遂行が大変になってしまった。多数決前には、本番の内容、そこに至る手順など、どこまで具体的なイメージができるか、といった観点から議論をするのが望ましかっただろう。

多数決の原体験(2)~高校時代の成功と失敗~ 

高校時代にも多数決の体験がある。部活の執行部の一員となった私は、文化祭で例年にない企画を提案した。従前から雑談の中で話していたこともあり、ある程度理解を得られていたとは思っていたが、例年どおりでよいとのメンバーもいた。具体的なテーマや進行のイメージなどを話していたところ、祖父に不幸があって数日学校を休むことになった。それで戻ってきた際、部長から、真剣に考えてくれるのは私だけ、と言われ、その企画で行くことになった。その後は準備が大変だったが、結果としては文化祭の企画は好評で、成功に終わった。これは明確に多数決が採られたわけではなかったが、選択に値する具体的な案が他に出されなかったということになるであろう。ちなみに、ここで支持してくれた部長は、上の中学時代の多数決の際、笑って挙手したその人だった。

私は翌年の文化祭でも、学年の出し物で例年にない企画を提案した。班の結成が認められ、具体的なテーマもプロジェクトペーパーで具体的な企画を述べて、多数決で採用されるに至った。ここまでは昨年までの経験を活かした成長ぶりを発揮した成功であったのだが、その後大失敗してしまう。私はアイデアを出すのが好きだったが、継続的にグループをまとめて実行していくのが苦手で、部活では数年間一緒に過ごしていたため意思疎通ができていたが、そうではない場合で、うまくまとめきれず、企画を途中で断念せざるを得なくなり、代替の企画で進むことになってしまったのだ。

大学以降は、あまり企画などには縁のない生活を送り、今の仕事も専門職でこれらの体験を直接的に活かすものにはなっていない。これらの課題は当時から意識していたので、克服しようと動いていたらまた違った道があったかのように思うが、当時は、金銭面や吃音癖が気になって積極的になれなかった、という事情もある。

解決法のない時代 

世代論はいつの時代も盛んに語られるが、その中の一つに「さとり世代」というものがある。欲求に乏しく、物事に深入りせず、浪費しない、といった特徴があるとのことで、その時代背景は、物心ついたころから不況で社会が停滞している、情報化社会の中で育ち現実的な知識を得やすい、といったものがあるそうである。私も物心ついた頃からずっと社会は迷走していて、政治や社会で進む方向性などが明確に示されていたこともなく、この世代論に共感する部分も多い。現在でも数ある課題について解決法が示されてはいないし、私自身も明確なものを持っていない。私は話しやすいのか、ベテランの方から「しんどい」と打ち明けられることも多い。

このように解決法のない時代においては、原理・原則への回帰、そして嫌悪感に基づく選択が行われやすくなる。このようなときこそ極端な選択は避けるべきであるが、心のよすがになりやすく、好まれやすい。極端な方向で振り子が振れて進んでいく。私としては、「とにかく死なないこと」「近代社会で踏み超えていけない部分を守ること」「すぐには見つからなくても解決法を絶えず探求し示していくこと」などを心がけて過ごしていきたい。

今回取り上げた「多数決」については、次のような書籍なども読んでみたりして、その在り方について考えを深めていけたらいいなと思っている。

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)