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報道写真について考えたこと

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フォト・リテラシー 戦争への視線

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)

「フォト・リテラシー」は聞き慣れない言葉であろう。これについては、次のような意味をもつと整理できる(8頁参照)。

  • (1)写真(とくに報道写真)を芸術的・社会的文脈で分析・評価できる力
  • (2)分析・評価の知識や倫理をもって問題への認識を高める力

より広い概念である「メディア・リテラシー」は(1)のうち社会的文脈での分析力を言うことが多い。写真は芸術性を兼ね備えているため、芸術的という視角が加えられている。また、(2)は情報の送り手だけでなく受け手の側の倫理性の問題で、あまり強調されないがメディア・リテラシーの概念に当初より含まれているとのことだ。

そして、本書は(1)に対応するものとして第1部・第2部(第1章〜第6章)が充てられており、構造主義的ではなく歴史的な観点から様々な問題が取り上げられている。「写真が事実をありのままに映している」という思い込みに対して、報道写真成立史から「制作物」としての側面があることを示す。また、日本の報道写真雑誌や写真集の歴史を丁寧にみていくことで、芸術と報道をはっきりと分けることができないということを指摘する。

続いて(2)に対応するものとして第3部(第7章〜第9章)が割り当てられており、大きく3つのテーマを扱っている。第7章は主に撮る側の倫理の問題を、報道写真の大家の作品にオリエンタリズムがないのか、ヒューマニズムを標榜する作品にアメリカ的普遍主義の宣伝が含まれていないか、後の写真史の展開とともに考えさせる。第8章は見る側の倫理の問題として、衝撃的な写真を見て見る側は何か行動するのか、しないとして写真は無意味なのか、とソンタグのサルガド評を題材に考えさせる。第9章は写真が写しきれていない事柄をどのように表現するのか、ホロコーストの表現の仕方を題材に考えさせる。

以上のような本書の本筋を離れても、紹介される写真家の様々な試みは非常に興味深い。例えば、パリからヴェネツィアまで面識のない男性の後を尾行して後姿を淡々と撮影した写真集があるらしい。文字で見るだけでもスリルを感じる。個人的には、防犯カメラの映像を組み合わせてある男女の恋の成就の過程を描写する作品があったら監視社会というテーマも入って面白いな、と何年も前から思っているのだが(締めの言葉は「大丈夫、カメラはあなたの大切な思い出を記録しています」なんて)、実際に同様の作品は出ているのだろうか。

実は私、教養課程時代に著者の講義等を履修し、この本の生成過程の一部を目撃している。当時の配布物等を改めてみると、本書で紹介されているテーマや具体例を豊富に見つけることができる。このときはまだ頭の整理ができておらず、数年越しにこの本を読むことでようやく復習をなすに至たったというわけである。

報道写真の構図

まず(1)写真の分析・評価について、自己流の鑑賞の仕方をまとめることにする。本来ならテクスト論とか勉強してから専門的に論じたいが、法学の方角に進んでしまったため一般人の感想にとどまる。とりあえず下の画像は、全体像を図に表したものだ。

まず、「報道」写真という特性として、写真を制作するのは被写体自らでなく中間者(編集者+撮影者)であるという点がある。見る者は基本的に中間者が撮った写真を通してしか、被写体について情報を得ることができない。また、被写体も自らの意図を中間者の意図より強く反映させることができない。とりわけ「決定的瞬間」を謳う作品では被写体はポーズをとる権利すら与えられていない。横を通る大きな矢印はこのことを表現したものだ。

そして中間者の意図が反映する要素として主なものを挙げると、次のようになる。

  • 構図と対象選択:例えば、戦争で兵士と市民のどちらを見るか
  • 色合い:ポジティブな印象を与えるか、逆か
  • カラーかモノクロか:事実を強調するか普遍的なテーマを求めるか
  • キャプション(説明文):写真の中のどの部分を注目してもらいたいか等
  • 組写真での配置:時系列やテーマの流れの中で読んでもらう
  • 記事:報道の雑誌では記事の主張が主体となり写真は従属的

中間者には撮影者と編集者があり、力関係が媒体によって異なってくる。個展は基本的に撮影者の意図を大きく反映させることができるが、媒体力の強い新聞や雑誌は編集者の意図がほとんどである。写真集は撮影者が主体となれるが、編集者の力も強い。本書でも、ユージン・スミスの名作「スペインの村」が撮影者の政治的意図を編集者が骨抜きにして写真の選択や配置を変更し、撮影者が「失敗作」と述べていると紹介されている。

編集者による作為は予想以上に大きいもので、誤りも導いている。『戦争広告代理店』では、ユーゴ紛争でナチスを模した収容所・民族浄化の証拠として用いられた写真はスクープ欲しさにあまり関係ない写真を新聞が大きく取り上げた、ということが指摘されているし、本書でも、ウクライナでの処刑場に連行される人たちの写真がポーランドナチスの収容所のガス室に連れて行かれる写真として扱われているなど、途方もない間違いの指摘が紹介されている。

以上が撮影者と編集者からの写真への矢印の構図である。これに本書で紹介される写真史的な知識を加えてみれば、一応完成されるだろう。以上のような「制作物」としての作為性を見る者がすべて見抜き、真の正解に辿り着くというのは不可能である。ではこういう分析は無意味かというと、「証拠写真」として安易に飛びつく態度を避け、慎重さをもって視線を投げかけるというだけでも十分な意義があるだろう。この構図を念頭に置くと、鑑賞の手助けにもなる。

戦争写真のあり方について

続いて、(2)倫理の側面として、第8章のソンタグのサルガド評から戦争写真のあり方について考えてみたい。サルガドは、有名な報道写真家であり、大規模な写真プロジェクトを立ち上げ、圧倒的なスペクタクルと目を背けたくなる悲惨な現実を共に伝えるような表現をしている。一方、ソンタグはアメリカの女性批評家で、『写真論』といった写真に関する著作で有名であった。

ソンタグはサルガドの作品について、「人間家族」といった神聖めいたテーマの下で原因も種類も異なる数多の悲惨をひと括りにし、見る人の関心を引くかもしれないが壮大すぎて何をしても状況を変えることができないという無力感を与え、抽象的な印象にしかならない、と批判する(196頁)。その現われとして、作品のキャプションで被写体となった者の名前を付さない点を鋭く指摘する。私もサルガドの「ESSAYS」展に足を運び、モノトーンで濃淡を操作して制作している点に普遍性を強調したい意図があるのでは、という印象を受けた。

普遍性と壮大なスケールを強調する写真は、かえって見る者に働きかける力が弱いのではないだろうか。この指摘には納得できる部分が多いだろう。例えば、日本では、太平洋戦争での原爆被害の衝撃が大きく兵器を悪とし戦争を絶対悪とする考え方が支配的であろう。これは、あまりに大きな相手を設定することになる。兵器の廃絶を現実に行うためには、自発性に委ねると囚人のジレンマで正直に放棄した者がつけこまれる状況にあるから、全ての国が同時に放棄する以外には「刀狩り」をするしかない。このように大きな相手を設定することで、かえって戦後生じた様々な戦争に対する抑止・防止のための具体的な行動が諸外国ほど活発でなかったと言うことができないだろうか。比較的記憶に新しいイラク戦争においても、日本の反対運動は大きなものとはならなかった。

現在は、巨大な国民国家同士が存亡を賭けて争う戦争は起こっておらず、市街地への無差別な絨毯爆撃も行われることがない。第二次世界大戦ホロコーストの教訓として、宥和政策でこの悲惨な状況を放置したことへの反省であり、正義の戦争をかきたてる理解の仕方があることへの認識も十分でない(参考:藤原帰一『戦争を記憶する』)。正義の戦争がありうるとした上で実利のために大義を捏造する人たちがいるという問題、テロという非国家組織を相手にしないといけないという問題、こうした現代特有の個別の問題点が捨象されてしまっているように思える。

このような状況に照らせば、個別具体的に戦争や紛争の原因や背景を丹念に調べ上げ、解決策を想起させるような表現方法のほうが有効だと考えられる。しかし、それでもなお、サルガドのような普遍的なスペクタクルは完全に無意味にはならないと考える。本書でも紹介される池澤氏による評で、美しいが故に深く記憶に残るのではないか、という指摘がある(200頁)。深く残る記憶は、人々に関心を向けた上で永久的に留める力をもつというのだ。

この点について、私は、スペクタクル写真にはより強い力が秘められていると思う。深く胸に突き刺さった悲惨な光景は、解決を探り具体的な行動をしていて壁に突き当たったとき、心を折らず、諦めずにもう少し頑張ろう、と駆り立てる力を提供する。一度取り掛かった人類の大仕事を成し遂げる心の支えとなるのである。その意味で、サルガドの写真には、無意味ではないと消極的な評価にとどまらず、やはり積極的な評価を与えてよいだろう。そして、具体性を追求する作品と協力し合えるものだと言えよう。私たちは、スペクタクルな表現によって大きな問題に取り組んでいることを自覚するとともに、詳細な洞察にも目を向け、今何ができるか個別具体的に考えていくことが求められている。

世界報道写真展2009 感想

全体について

2009年6月13日から8月9日まで、東京・恵比寿の東京都写真美術館世界報道写真展が開催された。この写真展は、オランダの世界報道写真財団が毎年行っているコンテストの入賞作品を集めたもので、本年は世界124カ国から9万点以上の作品の応募があり、その中から60点余りの作品が選ばれ、展示された。私が前回観に行ったのは大学で写真の授業を履修していた2004年で、当時はイラク戦争が重大な関心事で、大賞もイラク戦争を題材としたものだった。

この年の大賞は米国のアンソニー・スワウ氏の作品で、荒れた建物内を警官が銃を持ちながら見回る様子が写されている。一見途上国や紛争地帯の様子にみえるが、これが米国内であることに第一の衝撃、そして金融危機の影響によるローン未払いで手放された住宅であることに第二の衝撃が引き起こされる。昨年の金融危機が米国社会に与えた影響を象徴する作品である。

入賞作品では、四川大地震北京オリンピックがあった中国を題材としたものが多く、写真家それぞれの目線で中国社会が表現されている。戦争写真はグルジア紛争を題材としたものがあるものの例年より控えめな印象であり、中米の殺人事件など治安問題に焦点を当てた作品が目を引いた。日常生活では目にしない、世界各国で生じている問題を知るいい機会を提供するイベントであった。

日常生活の部・組写真第2位(カタログ10頁)の作品について

大賞に輝いた写真家が同時受賞。これも金融危機を題材としたもので、最初のパネルは3枚組みで、左にニューヨーク証券取引所の光景、右側上に政策責任者2人が事務所で話す様子、右側下に職業斡旋所で仕事を探す黒人男性、という組み合わせだ。証券取引所の写真は、正面奥に急激な右肩下がりの相場のグラフが表示され、取引に携わる人たちが不安そうな目で手前上にある情報を眺めている。中央の腕組みしている男性が象徴的で、普段からある床の上の紙くずが残骸のようにみえる。何が起こったのか、1枚で端的に表すことができる導入として最適な写真だろう。

右側の2枚については、仮に右上と右下の写真の配置を入れ替えたらどうなっただろうか、と考えてみた。いわゆる上の人と下の人の配置を逆転させてみれば、政策担当者達への抗議・批判といった意図を入れることができるように思う。こんな事態を招いた張本人たち!一般の人たちの苦労を見よ!という感じだ。しかし写真展でもカタログでもそういう組み合わせにはなっていない。これは、金融危機に政策側の人たちへの非難のムードが高まっていないことを表しているように感じる。もっとも、政策担当者も失業者も浮かない顔をしているが、失業者のほうがより余裕のない表情であるように見え、生活基盤が揺らいだ人々の辛さのほうが大きい、という印象を受ける。

次のパネルでは、左上に食糧配給への列、左下に空家街となった道路、右側にニューヨーク証券取引所の外で大きく手を挙げて嘆く男性の様子が写されている。最初のパネルから続いてすべて白黒の写真となっており、歴史的記録という性格を強める効果があるが、食糧配給と空家街の写真はカラーでないと状況がつかみづらく、訴求力に欠けると感じた。配給の列は自動車の中から写されていて、堂々と撮るのが憚られる雰囲気だったのかと想像をかきたてる。もっとも、真ん中の女性の真っ白な靴と流線型の自動車のせいで、いまいち深刻さは強調されない。空家街も中途半端に自動車が1台あって、閑散さが削がれているようにみえる。

右側の写真は真ん中下の嘆く男性がいなければ作品として成立しなかったであろう。でもこれ、やらせでもできるよね、と邪な勘繰りをしてしまった。スーツ姿だが荷物も持たず、頭頂部は少し薄くなっている。この世の終わりと言わんばかりの嘆きようなのだが、おそらくこの人は職業斡旋所で相談したり、配給の列に並んだり、サブプライムで家を追われるような人ではない。もっと辛い状況なのに、ある意味淡々と暮らしている左側の写真に写る人たちと対比できるように思った。

ところで、日本のバブル崩壊について象徴的な写真ってあまり記憶にないよね、という話を同行者とした。当時まだ自分が幼くて知らないだけか、報道写真が隆盛じゃなかったか、じわじわくるという経緯のため象徴的な写真が撮れなかったのか、色々考えられるが、「失われた10年」という若者のメンタリティーにも大きく影を落とした(私もど真ん中で、お金のかかる遊びを滅多にしない)時代について著名な特集がないというのは物寂しい感じがする。

日常生活の部・単写真第1位(カタログ20頁)の作品について

個人的にベストの写真で、ものすごく衝撃的なものだ。白昼、アスファルトではないがきれいに整備された道路、自動車はあまり通っていないようだが、道幅も広そうだ。そんな道路で、20代半ばくらいの若い女性が仰向けで倒れている。サンダルに、青の鮮やかなジーンズ、黒のタンクトップ姿で、パーマのかかった長めの黒髪。口は半開き、目は真上を見つめ、頭から血を流し、路上に流れ出す血はまだ乾いていない。その隣(写真では奥)に停車した1台のワゴン車。小学校の送迎用であろう、開けられた窓から何人もの子供たちが彼女の姿を見下ろしている。このワゴン車の色がジーンズに似た紺色で、さらに奥にある建物の壁が赤色。色の配置が皮肉にもピッタリ合っている。

説明文では、中米エルサルバドルで写されたこと、彼女の名前がペトローナ・リバスということ、この場所が小学校のそばであること、小学校に通わせる2人の子供がいたことが明かされている。さらに「死体」となっているが、血色もあまり変わっていないし、まだ救命可能性あるんじゃないの?と問いたくなるほど生々しい。日中にも関わらず救急車が駆けつけていたり、警察が調べていたり、通行人が応急処置をしたり、といったことは全くなく、暫く放置されていたようにみえる。この国では1日10件の殺人事件が起こっているとあり、警察等も迅速に駆けつける体制が整っていないのだろう。「日常生活の部」に投稿されているのも衝撃的で、珍しくないこと、ということなのか。

説明文ではこうした犯罪が多発する背景についても言及がある。アメリカ合衆国で犯罪を起こし強制送還されてきた人たちがストリート・ギャングを形成しているのだという。急に戻ってきても生活していく基盤がない、ということで犯罪に走るのであろうか。迷惑な人には帰ってもらう、ある意味当たり前のことであるが、その後どうなるか想像をめぐらすことは滅多にないであろう。仮に自分たちに責任はなくても、防げる悲劇があるならば防ぐよう努力しよう、という気持ちになる。送還に際して生活上の指導とか簡単にできないだろうか。この女性の悲劇を無駄にはしたくない、そう思わせる1枚である。これには、説明文で名前や境遇を合わせて書くことで被害者を身近に感じさせる効果が働いているだろう。

その他印象に残った写真について
  • (1)一般ニュースの部・単写真第2位(カタログ56頁)
  • (2)スポーツフューチャーの部・組写真第1位(カタログ126頁)
  • (3)自然の部・組写真第2位(カタログ74頁)
  • (4)ポートレートの部・組写真第3位(カタログ118頁)

中国関係の写真をまとめて。(1)は数点あった四川大地震の写真のうちのベスト。地震で大破した住宅、屋根はなく、壁も崩れている。扉の枠だけがなんとか立っている。そんな中、キッチンに備え付けの大きな中華鍋は無事で、下で薪を焚いて料理をする若い夫婦の姿。着ている洋服は汚れておらず、白地にピンクのデザイン。強かに生きる人の姿は、勇気を与えるだろう。カタログでゆっくり見てみると、家の奥の畑の作物は変わらず元気な様子を見せており、住宅との対比で植物の逞しさも感じ取ることができた。

(2)は北京オリンピックを題材として中国社会を写し取った良作。オリンピック中継を映し出すテレビを色んな場所で撮影したものだ。(a)綺麗な高層ビル内での大型大画面液晶、(b)住宅の中、古風な曼荼羅のような布と並んだ古くて画像も粗いブラウン管テレビ、(c)古めのマンション内、ブラウン管テレビ自体は比較的新しいが、古い冷蔵庫の上に造作なく置かれ、周囲には古い扇風機が雑然と置かれている、(d)少し古めのテレビが、プラスチックのカゴ2つ重ねたうえに置かれている。周囲には空き瓶や倒れたペットボトル。経済発展の恩恵を受ける進度は人それぞれ、どのような境遇の下でオリンピックを迎えたか推し量ることができる。写真内に人は写っていないが、それでもわかる。

(3)は「四季」を表現したもの。撮影には最低1年程の時間がかかっているだろう。杭州にある西湖という湖のほとり、中央に桃の木が配置されている。花がひらきかける、満開、青々と茂る、葉が落ち雪をかぶる、そんな木の移り変わりと共に、手前の芝生、奥の湖面、両隣に配置されているベンチに座る人々の様子も移り変わっていく。観光地のようで、集団で写真を撮る姿も。地元の人が運動していたりもする。このような光景が、人を変え葉を変え花びらを買え、幾年も繰り返されていくのだろうと想像できる。カタログでは写真展で飾られていたものより写真数が減らされ配置も変更されているので注意が必要だ。

硫黄島の星条旗タイムズスクエア勝利のキス、崩れ落ちる兵士、万里の長城で戦う八路軍、多くの人が知っている戦争写真、これらを人形(フィギュア)で再現したのが(4)である。撮影したのは中国の写真家。アイデアも面白いが、こうした演出写真が堂々と評価されていることが驚いた。最近gooブログで花の写真コンテストをやっていたが、枯れた花をもらってきてグチャグチャにした後、路上とかに雑然と置いて色んな場所で色んな背景で撮影したら面白いかな、なんて思っていたが、主催側にとっては想定外だろうし倫理的にも問題がなくはないのでやらなかった。

世界報道写真展2010 感想

はじめに

忘れることは人間の強みである。一日の体験の中で重要なものとそうでないものを自然に振り分け、一昨日の夕食といった情報を記憶の隅へ追いやっていく。しかし、忘れすぎるのも困りものである。時々「おいおい数年前の流れは何だったんだ」みたいなことがある。日々ニュース等の情報を浴びていても、長く記憶にとどまっているものは少ない。話を合わせる・大人としての義務感を果たすといった個人的な必要性はなくなっても、国民という政治の当事者として記憶しておくべきことがあるだろう。週休二日のうち、土曜日は一週間を振り返り、日曜日は一年前・三年前・五年前といった少し前の普通のニュースを振り返り、時代の空気を思い出すことに使う。そういう番組があったらいいな、なんて話をする。

世界報道写真展は、昨年一年間に撮影された報道写真のコンテストの入賞作品を集めたもので、世界で何があったかを思い出す機会になるだろう。また、単に思い出すだけではなく、文字だけでしか知らなかったことに現実味を与える、あるいは見落としていたことを知る機会としてもよい体験ができる。例えば、「ジンバブエでは経済が破綻している」ことはよく知られている。「仕方ないので人々は自給自足生活をしている」という情報は少し興味がある人は見たことがあるだろう。今回の写真展では、ジンバブエの人たちが大きなゾウを狩って群がり、解体をして食べて残りの骨が残っているという様子が描かれている作品があった。「自給自足」とはこういうことなのか、文字だけでは到底想像できないものである。

全体について

今年は政治暴動・紛争・戦争といった、人と人との間で生じる流血事が多く取り上げられている印象を受けた。昨年は金融危機地震といった人外の災難に立ち向かうものや比較的スケールの小さい国内の治安問題といった「争い」から離れたものが多かった。これと比べると様変わりという感じで、たった一年違うだけで注視される問題が大きく変わることに驚いた。

そうした入賞作品の中で、現在ではもう行われなくなったと思うことが未だに行われているんだ、といった現代の常識を覆されるような感覚を抱くものが多かった。パレスチナ紛争の写真では、学校の校舎・バスケットゴールのある運動場に爆弾が降り注いでいて一般市民が逃げる光景を写したものがあり、市民生活の真っ只中で戦争が行われていることは衝撃だった。また、ソマリアの「石打ちの刑」の始まりから最後まで写した写真も、現代とは思えない出来事が起こっていることをリアルに認識させられた。

今回はカタログは購入しなかったのだが、「作品リスト」なる紙を受付でもうらうことができ、後で思い出すことが容易になり有難かった。他にも、冒頭で大賞の選考や写真展についての審査員のコメントがあるなど、鑑賞者にとって助けになる工夫が凝らされていてよかった。カタログについては、東京都写真美術館の1階のショップで立ち読みすれば、無料でどんな作品が入賞したのか全部わかっちゃうなあ、なんてことを思った。もちろん、大きなパネルでじっくり見るほうが十分に鑑賞できる。

大賞について

大賞は、イランの大統領選挙後の抗議の様子として、夜の屋上で叫ぶ女性たちを写した写真である。高感度カメラの撮影のようで、空は薄暗いといった程度の暗さなので一瞬撮影の時間帯がいつなのか戸惑う。下の窓の明かりが煌々と灯っているところから、夜ということがわかる。カメラの目は人間の目とは違うものも写し、時には肉眼では見えない様子も写すということを認識させられる。

次に意識が向くのは、技術的にはよくわからないが、中央の3人の人にピントが合わせられていないようだ、ということである。特に会場の大きなパネルで見ると人物はぼやけて見える。特定されないための配慮なのか。同一の撮影者で同じテーマの写真が他にも2枚あるのだが、それも人物の顔が見えないようになっていた。しかし、人物がぼやけるかわりに引き立つのが、建物とその上にある機器類である。建物としてはそこまで新しくない、数十年はあるだろうという感じのものである。その上には、エアコンの室外機が数台置かれている。そして、背後の建物群では、テレビのUHFアンテナが何個も立っているのがわかる。

このアンテナが声をあげる人たちとの対比となっていて、これは他の2枚と合わせると一層鮮明になる。パラボラアンテナに左右囲まれて叫ぶ男性の姿を写した写真があるのだ。アンテナと人の対比は、情報の受信力と発信力の格差を思い起こさせる。法学でも「表現の送り手と受け手の分離」ということが議論される。イランに住む人は情報を受ける分には宇宙を経由して受信が可能な機器を持っているが、いざ自らが発そうとすると夕闇に紛れて届かぬ声をあげるくらいしか手段がないのである。今回はイタリア人カメラマンの高感度カメラの目によって世界に届けることができたが、偶然が重なる上に1年の時間がかかることとなった。

日本ではインターネットも発達して多くの人が情報発信できるようになったが、発信力の格差は依然として残っている。今回の写真展でスポットニュースの部組写真1位となったマダガスカルの暴動は、世界で十分に知られなかった問題に目を向ける意味があると審査員のコメントが入っていた。このマダガスカルの事件は、検索してみると日本のニュースでもブログでもリアルタイムにいくつか取り上げられていたものの、多くの人に知られるには至っていなかっただろう。「届く力をもって発する」というのが今後表現を考える上で課題になるだろう。私のブログも実生活の顔を隠す「夜の闇」の中で、届かぬ生身の声をあげているようなものである。しかし、痴漢冤罪で息子を亡くした母親が地道な活動により多くの人に認知されるに至った先日のニュースをみると、生身の声で発し続けることは大切なことだと考えさせられる。

その他印象に残った写真について

一般ニュースの部単写真第1位の「砲弾で天井に穴」は唸らされるものがあった。パレスチナ紛争を取り上げた写真である。写真内には人物は一人も写っていない。飾りっ気のない部屋に、おそらくガラスもない大きな窓と、天井の真上に大きな丸い穴とむき出しになった鉄筋コンクリートの鉄筋が曲がっている様子が写されている。この部屋の主は砲弾を受けて亡くなったそうである。戦争の悲惨さを残虐で目も当てられないシーンではなく静かな喪失感のあるシーンで表現する、素晴らしいものだと思う。

今回の報道写真展では、日本を撮影したものがひとつ入賞している。それは、東京の通勤電車で窓に顔を押し付け浮かぬ顔をしている女性を写した写真である。東京在住の方には世界デビューするチャンスがあったのだ。こんな何十年前からある日常的な風景が入賞するというのはやるせない気分になる。というのも、アメリカからはオバマ大統領の就任式を写したモノクロでエピック的な組写真が入賞しているのだ。昨年は日本も政権交代で大きな一歩を踏み出した・・・はずである。そんな年に通勤電車の疲れた表情が選ばれるというのは皮肉なことだ。昨年でも金融危機の象徴的な写真が日本にはないという話をしたが、今回の政治の転換点でも、名演説もなければ象徴的なシーンもなければ国民の熱狂もない。静かな日常が続いていく日本。「実感のない社会」というのが似合っているだろう。

"The English At Leisure"という題の2枚の写真も興味深かった。日本語タイトルでは「英国流余暇の過ごし方」とあった。1枚は海水浴、1枚は競馬場。その様子はイギリスらしい皮肉たっぷりである。海水浴は人はまばら、空は曇り、楽しさいっぱいという感じからはかけ離れているのである。昨年ポーランドバルト海沿岸の海水浴場を空撮した組写真が入賞していたが、そこでは人はたくさん、色はカラフルで思い思いの楽しい時間を過ごしていることが伝わってくるものであった。それへの対抗と考えると実に面白い。競馬場については、レディースデーで女性たちが多く楽しんでいる様子なのだが、足元がひどい。捨てられたゴミの山なのである。他人に犠牲や苦しみを強いて汚れた地面の上に成り立ってる楽しみですよ、という感じである。こういうのをイギリス人カメラマン自ら撮影するところも、皮肉がきいている。

一連のニュース現場で腕立伏せをする様子を自ら写した中国の写真家は、何だよこの発想!という感じである。昨年も人形で名シーンを再現する中国の写真家がいたが、中国の発想の奇抜さはものすごい。最後は、家畜の屠殺場の写真も目を引いた。世界に出て行って知られていない現実を明らかにする!というのもいいが、実はほんの身近に「見ないこととされている」ものがあるということに気づかされた。