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鉛筆削り

小説

本編

何歳になっても新しいことをやろうってときには試験がつきものだ。先日久しぶりにマークシートの試験があり、鉛筆が必要なので机の奥から引っ張り出して持って行った。試験会場に着いて、まじまじと鉛筆を眺めてみると、沸々と祖父の姿が思い出された。


私の実家は片田舎の一軒家で、玄関を上がると、すぐ右側に祖父の部屋があった。祖父は地元で事務職を務めあげ、引退してからは、病弱で入院している祖母を見舞うほか、自室でカキモノをしていた。専ら鉛筆を使って原稿用紙に書き進めており、部屋の前を通り過ぎるとにっこりと笑いかけてきてくれた。何を書いているのか、幼い頃はわからなかったが、祖父の母や少年時代の思い出、学生時代・青年時代の出来事、詩や小説を書いていたらしい。私は祖父の部屋の落ち着いた雰囲気が好きで、物心ついたころから度々部屋に行っては遊んでもらっていた。とは言っても、頭を撫でられたり、ギュッと抱きしめられたりといった記憶はない。あとで聞いたところによると、子供といっても、自立した人間として扱っていくべき、との持論があったようで、特別甘やかしたりはしなかったとのことだ。

小学校に入ってすぐのころ、手で鉛筆を削るのを手伝ったことがあった。母親は刃物を使うのは危ないと言っていたが、祖父はそんなことを怖がってちゃ何も出来ない、と突っぱねて部屋に私を連れて行った。私も初めてのことで好奇心が高まり、目を見開いて祖父の説明に聞き入った。祖父は折りたたみ式のナイフを机の中から出した。黄色がかった金属の柄には漢字で何やら文字が刻んである。「ひごのかみ」と読むのだと教えてもらった。昔の少年はこのナイフで工作をやっていたらしい。まず最初に祖父が手本を見せるかたちで削る。刃を外側に向けて、ナイフを動かすというよりは鉛筆を動かす感じで削るのだとコツが説明される。私の番になり、色々と指示を受けながらやってみるが、不器用な性質だったので、うまく慣れるまでには数十回の練習が必要だった。祖父は気長く私ができるようになるまで丁寧に指導してくれた。私が不器用だからと音を上げても、自分の若い頃よりずっと上手だと言って励ましてくれた。今ではそれが方便だったとわかるが、当時は真に受けて本当に元気づけられたものだ。

祖父は私が学校に行っている時間は、祖母のいる病院へとお見舞いに行っていた。帰りには、いつも途中で買った原稿用紙をぶらさげていた。夏休みには一緒に見舞いに行って祖母と話した。祖母はゆっくりとした調子で「学校は楽しいかい」「どんな遊びをしているの」と尋ねてくるのだが、子供にとってはあまり面白いものではない。けれども、祖父と祖母が笑顔で手を握り合い私のことを見つめている姿をみると、きちんと答えて楽しませてあげようという思いが強まり、精一杯の答えをした。

祖父にはそういう日課が続いていたのだが、私が小学5年のときの夏、祖母の具合が急激に悪くなって亡くなってしまった。病院で私も最後の瞬間に連れ添ったが、祖母は安らかな寝顔をしていた。葬儀の日、父は早すぎる母の死に大粒の涙を流して泣いていたが、祖父はいつもの悠然とした物腰で、静かに座っていた。私はちょうど無邪気に虫を殺しては喜んでいた幼年期を過ぎ、少しずつ命が失われることに恐怖感を抱き始めていた頃だった。祖父はどのように感じているのだろう、と思い、また日々の生活に落ち着きが戻ったときを見計らって、ひとつ尋ねてみた。「おばあちゃんが亡くなって悲しくないの?」その質問をしたとき、祖父は若いころ祖母と出会った頃から今までの写真を取り出してきて机に並べていた。祖父は顔色を変えずにっこりと笑って答えた。昔のことなのでいくぶん曖昧だが、きっとこんな感じのことを言っていたと記憶している。

「もちろん、もう会えないのは辛いことだし悲しいさ。でも、いずれ皆別れなければならないんだよ。大事なのは、どう生きたか、なんだ。生命の終わりは儚いものさ。ごらん、小さい虫から家畜の牛、人間だって病気や事故で不条理なかたちで強制的に死を突きつけられているだろう。生きているわずかな時間にどれだけのことができるか、幸せな気持ちになれるか。おばあちゃんは安らかな寝顔だったろう。僕たちは連れ添って本当に幸せだったよ。だからもう悲しくない。私がこんな風に思っているのは、今と違って戦争などで身近で大切な人たちを失う経験を小さい頃からしてきたからかもしれない。けれど、本来死というのはずっと身近なものなんだよ。」

私にはまだよくわからなかったが、祖父は写真をひとつずつ取り出しては私に二人の思い出を楽しそうに話してくれた。ただひとつわかったことは、祖父と祖母は思いが通じ合った仲だということだった。私もきっとそんなお嫁さんに出会えるよと祖父は笑っていたが、それはどうか、疑わしい。本当に好きな人が振り向いてくれることは滅多にないものである。

中学校に入ると、制服も着るようになり、お小遣いも増え、少し大人になった気持ちになった。私は祖父の誕生日に手回しの鉛筆削り器を買ってプレゼントした。プラスチックのボディーに横から鉛筆を差して刃と連動したハンドルを回すタイプのものだ。母は頑固者の祖父のことだから、ナイフで削るのにこだわって削り器なんて使わないよ、と言っていたが、意外にも祖父はたいへん喜んでくれて「使いやすいね」と言ってそれ以後ずっと私の贈った削り器で鉛筆を削るようになった。ある夜、部活動から帰ってきてふと玄関から隣をみると祖父は嬉しそうに鉛筆削り器を回していた。その姿は少々滑稽で―コミカルと言ったほうがいいのか―印象的なもので、今でもありありと想い浮かべることができる。

中学・高校と思春期は色々と摩擦があるもので、私も例外なく反抗期と呼ばれる状態になってしまった。たまに反抗期がない人もいるが、それは親など周囲の期待に苦もなく応えられる才能をもった人であろう。学年が上がるにつれ学校の勉強についていけないところが出てきて、どうして自分はこんなことやっているのだろうと疑問が出てくる。親は勉強しろと言うけれど、それに反発するにはまだ若くてきちんと説明もできないし、モヤモヤばかりが溜まっていく。

この時期、父と喧嘩をしては自室に閉じこもり、たまに助けを求めて祖父の部屋に行った。祖父は私の敵も味方もしなかった。その態度に当時は少々不満だったが、私自身で試行錯誤をして切り開く経験をしてもらいたかったのだろう。祖父はカキモノの手を休め、いつもどおり落ち着き払って、私の言い分をただ聞いている。しばらくして、「君の言いたいことはこういうことかね」と手元の紙に書いて見せる。私が頷くと、「それならもう解決したも同然だ」と言う。たまに「私が君くらいの頃こんな本を読んだものだよ」と古めかしい本を渡してくれる。それは当時の私には難しくてよく理解できなかったが、今みてみると確かにヒントになる記述が隠れていた。

当時の悩みも振り返ると大人に比べればかわいいもので、紆余曲折を経て何とか進路が決まり、東京の大学へと行き、一人暮らしをすることになった。高校卒業の際には、感謝の意味を込めて祖父に一ダースの鉛筆を贈った。文房具屋に行き、一番品質のよさそうな臙脂色の鉛筆に決め、追加でメッセージを入れてもらうことにした。「ありがとう、いつまでも長生きして」みたいな感じのことを入れてもらった。渡したとき祖父はいつものようににっこりと笑ったが、「最近目が悪くなってきてね、長時間は書けなくなってきたんだよ」と言った。だんだんと私が成長するにつれて一緒にいる時間が少なくなったせいか、そのような祖父の変化に気付いていなかった。口には出さなかったが、成長して自立していくことにも寂しさがあるものだと感じた。

大学生活にも慣れて3年生になったころ、私の実家がニュースに取り上げられた。火事になったのだ。下宿先に電話がきて急いで駆けつけてみると、全焼には至らなかったが祖父の部屋は焼けてしまっていた。幸い家族全員逃げ出すことができて命は大丈夫であった。来客のタバコの吸殻を片付けたとき、ゴミ箱の鉛筆の削り粕に引火してしまったのが原因らしい。このときの祖父の落胆の様は今までに見たことがない程のものであった。愛する妻との別れでも動じなかった祖父が、絶望の余り周囲の目もはばからず声を出して泣いていた。祖父のライフワークとしてのカキモノがどれだけ大事なものだったか、まざまざと見せ付けられた。きっと母が亡くなっても妻が亡くなっても原稿用紙に思い出を書きとめ、詩や小説として残していくことであの落ち着きの精神を保っていたのだろう。それが根本からなくなってしまったときの悲しさは言葉では表現し尽くせない。

「また書き直せばいいよ」と元気づけようとしたが、詮無きことであった。視力といい、体力といい、そこまでの余力が祖父に残っていなかったのは明らかであった。でもマイペースに頑張ってもらえば出来ないことではないと勇気づけてあげたかった。しかし祖父の失意は戻ることはなかった。そのままプツンと糸が切れたように流行りの風邪にやられてあっけなく亡くなってしまった。生きがいをなくすとこうも簡単に生きる力がなくなってしまうのか、と愕然とした。

葬儀のとき私は大泣きした。以前祖母がなくなったとき、祖父は、大事なのはどう生きたか、生命の終わりは儚いもの、と言っていたが、これではあまりに儚すぎる、悲しすぎる、虚しすぎる、辛すぎる。人生をかけて積み上げてきたものが一瞬にして灰になってしまう。まさか祖父自身がこんな悲しい死に方をするなんて思ってもみなかった。まだ年齢的にも余裕があり、私が家庭をもつくらいまでは生きていてくれると思っていた。きっと祖母のように安らかに幸せそうな死を迎えると思っていた。あのいつも悠然としていた祖父との思い出が、こんなかたちで終わってしまうなんて。もう、本当に・・・。


祖父の持ち物を整理しているとき、ふと私が贈った鉛筆をみつけた。贈ったときのままケースに入っていた。祖父がこの贈り物を大事にしてとても使えないと言ってしまっておいたのは知っていた。火事になったとき祖父は真っ先にこれと鉛筆削り器を手に逃げ出したそうだ。ケースを開けると、十二本のうち一本だけが削られて使われた形跡があった。それを手にしていると、母が祖父から私への手紙を渡してくれた。開いてみると、鉛筆で少し字体が崩れながらもしっかりと文字が書き連ねてあった。火事のあと、私の贈った鉛筆で書いたものであることは明らかであった。そして、いつものように優しく諭す祖父の口調そのままに、私に向けてのメッセージが刻まれていた。

「ご存知の通り、私は優しい母、これ以上なく美しい伴侶、会社での仕事などの思い出を書き留めてきた。もちろん過去を振り返るばかりではなく、立派に育っていくあなたの姿も映していったし、美しい詩や胸躍る冒険譚、小説も作ってきた。しかし、私がこのような趣味を始める頃、ひとつ疑問があったんだ。こんなことをして果たして意味があるのか、結局書いたところで全部読んでくれる人はいない、忘れ去られて朽ちていくだけなのに、とね。根本まで突き詰めれば本当に意味がないんだ。でも、意味がないと結論付けることにも意味がないんだよ。自分が置かれている状況と向き合って信念をもって進んでいくしかないんだ。

「私は少し運悪く、書いたものが朽ちていくという、本来なら生きているうちは見ないで済むことを目前に見てしまった。でも、落ち着いて考えてみると、やっぱり私がカキモノをしてきたのは残すためだけじゃない。書いているあいだ、幼少の自分や若い妻、家族・仲間と過ごした日々がありありと思い浮かんでくる。そのときの悦びは永遠であって、絶対であって、不朽のものなんだ。そんな時間を過ごせた私は幸せ者さ。残念ながら私にはもう体力が残っていないが、将来が開けているあなたは、自分の信じる道を進み、その瞬間瞬間を味わっていって欲しい。」

この祖父からの手紙にどう答えればいいのか、どう考えればいいのか、今の私にはわからない。これから人生経験を積んでいく上で、祖父の言葉と照らし合わせていく中で答えを探していかないといけない。結局、削り器とメッセージ入りの鉛筆は私がもらうことになって、机の奥にしまわれることになった。そして今手にしているのは、その鉛筆だ。祖父との思い出を力に、この目の前の試験を突破して未来を掴もう。


試験はほどなく始まり、私は黙々と鉛筆を走らせた。その間、心なしか文字が滲んで見えた。

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