切符がくれたもの

(1)

誰しも眠れば夢をみるけれど、どういう仕組みなのだろう。詳しいことはわからないが、私が夢をみて思うのは、これは記憶のお遊びみたいなもの、ということだ。先日、業務用のエレベーターに乗った。金属色で強情そうな音を立てる。ささやかながら印象的な体験だった。その日の夜登場したのは、地中の施設に向かうための軋むエレベーター。下る下る、ひたすら下る。こんな風に間近な記憶が姿を変えひとつの話を紡ぐ中には、ふと普段忘れていた記憶も登場する。これから紹介するエピソードは、気まぐれな記憶のお遊びがくれた、小さなプレゼントだ。


寒さを肌で感じるようになった夜、拓也は居酒屋のバイトを終え自宅のマンションへと自転車を走らせた。電燈が煌々とした光とともに微かな音を立てその存在を主張する中、誰もいない通りを軽快にとばす。任務完了と言うように颯爽とマンションの駐輪場に自転車を戻して、いつものようにポストを開けた。こんな夜中だ、当然ながら新聞やら郵便物は家族が既に持ち去っていて、ポストは空っぽのはず。でも、習慣のように入り口を通るときには、ガチャっと開けてガチャっと閉める。手にその感触が染み付いている。

「あれ…?」

拓也はポストの中に入っていた小さい紙をみつけ、今にも階段へ向かおうとしていた足を止めた。よくみると電車の切符であることがわかった。何の変哲もない、いつも使う鉄道の切符。といっても、毎日の通学には定期券を使い、今ではカードで電車に乗るようになったため、切符をみるのは新鮮な感じがした。また、切符の真ん中には、ちっちゃくマルの中に「小」の文字。子供用だ。

「きっと近所の子がいたずらでポストに入れたのだろう。」

合点がついたところで使い古しのジャンバーのポケットに切符を放り込み、足早に階段を上っていった。両親も弟も寝ているので、そっと扉のカギを開け、自分の部屋のベッドへと入り込んだ。

(2)

「ねぇ、早く、何してるの?」

甲高い女の子の声に拓也はハッとした。周囲では、背が高く引き締まった顔をした大人たちが急ぎ足で通り過ぎていく。目の前には、やけに大きく見える、駅の自動改札機。矢印や進入禁止の表示が身近に見える。女の子の声はその向こう側からきこえてきた。

「切符なくしたの?ちょっと、今日は急いでるんだから。」

もう一度声をかけられて、拓也は女の子に顔を向けた。自分よりも背が高い。どことなく見覚えがある。ここで納得がいった。小学5年生ころ、ピアノ教室に行くところが夢に出てきたのだ。彼女とは教室での知り合いで、連弾を取り組んだこともある。この年代、女の子のほうが体格でも勝るので、学年は同じでもお姉さんのような態度。生活範囲の狭い小学生にとっては、自分の学校以外での知り合いというのは貴重なもので、他の学校の話を面白くきいていたものだ。

「連弾の最初のレッスンよ!いきなり遅刻したら先生に怒られるわ」

そうか、今日は初回の練習か。ええと、切符は確か、ジャンパーのポケットだったな。拓也は「今行くよ」と小走りで改札の向こう側にいる彼女に駆けていった。自動改札機は、可愛らしい電子音で送り出してくれた。

ピアノ教室に着くと、先生が出迎えてくれた。なぜか先生は大学のフランス語の先生だった。記憶がごっちゃになっている。お決まりの赤のスーツに縁の厚いメガネ。あまりにも個性的で突然出てきて笑ってしまった。そう言えば翌朝はフランス語の授業だ。

連弾のレッスンを初めて受けたときのことは印象に残っていた。椅子をふたつ並べ、拓也が上のパート、彼女が下のパート。入りの音から息を合わせ、メトロノームで拍も合わせ、どの部分を強く弾くのか、相手に譲って小さく弾くのか、戸惑うことばかりだった。隣に座る彼女が丁寧に確実に音を重ねていくのをみて、惨めな思いもした。しかし、これが夢というものか、驚くほど指が回る、拍も取れる。プロのピアニストのような気分で弾くが、乱れない。下のパートともきちんと合っている。先生は驚嘆し、部屋は充実感で満たされた。

練習が終わり、ふたり並んで建物の外に出た。ちょっと自分に自信がついた気がして、となりの彼女に顔を向けると大人っぽい顔が少し可愛らしくみえた。強い日差しが拓也の目に入ってくる。思わず腕を顔に回し光を遮ろう…

…としたそのとき、夢が終わり、拓也は目を覚ました。季節に似合わない強い日差しが、ベッドに横たわる彼の顔に降り注いでいた。

ずいぶん昔のこと夢に出てきたなぁ、と感慨にふける束の間、はっと今の状況に気がつき目覚まし時計につかみかかった。お昼近くだ。大学の授業はとっくに始まっている。自主休講だ、まぁいいか、身体の力が抜けて、拓也は再びベッドに寝そべった。天井をみつめながら、またさっきの夢を振り返る。拓也は、どうして10年もの昔のこの出来事が夢に出てきたのか理解することができた。その日アルバイトをした居酒屋の店内で、このとき連弾をした曲が流れたのだ。

「あ、俺この曲ピアノで弾いたことあるよ」
「え、本当?男のコのピアノってカッコいいわぁ。今度弾いて見せてよ〜」
「ダメダメ、ずっと昔のことなんだから。もう弾けない。」

こんなやりとりをバイトの仲間と交わしていた。このとき、次に出てきたのはため息だった。そう、もう弾けない。弾けない。ピアノは中学に入ってしばらくしてやめてしまった。指がなかなか回らず、高度な曲は弾けないと思った。そうなると急に楽しさが減る。高校受験といった理由をつけて、それ以来ピアノの蓋は閉めたままだ。

そういえば、彼女、今何してるのだろう、と考えが及んだとき、拓也はふと思い出した。忘れてしまった彼女との約束を。

(3)

拓也は、地図を片手に見慣れぬ街並みを歩いていた。

「えっ…と、吉川…友美子さんか。」

彼の手には数年前の年賀状が握られていた。引っ越してなかったら、きっとここにいるだろう。彼女との約束を思い出し、拓也はベッドから飛び起きて「約束のモノ」を部屋中ひっくり返して探し回った。住所は昔の年賀状があったはず、とこれも探し回る。一息ついたところで、時計を見上げ、これなら今日でも間に合うかも、と家から駆け出したのだ。このように家でドタバタしていたものだから、もうすぐ日が暮れる時間になってしまう。彼は足を早めた。

住宅街で各家の表札と年賀状の苗字を照らし合わせながら、拓也は彼女との約束を思い返した。


ふたりで弾いた発表会のあと、並んで駅に向かう。
「お疲れさん。今日の演奏上手くいったね!」
彼女は充実感で身体を満たし、拓也に笑いかけた。
「そう…満足してくれたならよかったよ。練習中足を引っ張りぱなしでさ」
控えめに答えると、彼女は大きく首を横に振った。
「そんなことないよ、拓也は本番ですごく楽しそうに弾くんだもん。」
「え、でも音を間違えたりとか…」
「私たちの年ならそれが普通よ。私はお母さんに監視されながら言われたとおり正確に音を重ねるだけ。たくさん練習するけど、心の底から楽しい!って思ったことないの。でも、拓也の伸び伸びした演奏を隣でみてたら、本当に楽しそうで、私も楽しくなってきたわ。」
「そんなものなのかな…」
「そうよ!ねぇ、またふたりで一緒に弾こうよ。弾きたい曲があるの」
「うん…」
「今度楽譜をもってくるから。絶対やろうねっ」


「あ、ここだ…」

拓也は、一軒家の玄関先で足を止めた。インターホンを押そうか?でも何と言えばいいのかな、自分でも忘れてたくらいだ、相手も忘れているかもしれない。勢いでここまで来たものの先を考えていなかった。約束、なんて言っても憶えてなかったらどうしよう。

玄関先で首をかしげる彼。ふと気がつくと、隣に人の気配を感じた。ゆっくり顔を上げると、自分と同年代の女性が立っていた。その女性は、もちろん背は拓也よりもずっと低くなっていたが、しっかりと見開いた目、雑誌に出てくるようなお洒落にセットされた黒い髪、パリっとキマった茶系で大人びた服のコーディネートと、昔のように、年齢のわりに落ち着いていた彼女の印象を残していた。

「もしかして、兄さんのお友達?」
「あ…いや…」

拓也はうろたえてしまった。こんな急に再会するとは思わなかった。それにしても、家の前に男がうろついていて、「ヘンな男の人がいて帰れない!」と大騒ぎにもなりうる状況だったはず。動じることなくあっけらかんと声をかけてくるところ、中身も昔のまましっかり者なんだな、と感じた。男兄弟がいるからか。ともあれ、自分が誰でどういういきさつでここに来たか、言葉で説明するのは非常に難しい。ということで、手にしていた昔の年賀状を目の前にズイっと彼女の顔の前へ持っていった。

「…それ私が出したもの…『前・田・拓・也・様』…あぁ、もしかして拓也くん?小学校のときピアノ一緒にやってた!」
拓也はカクカクとうなずいた。身体が緊張している。
「なつかしいわあ。憶えてるわよ、そういえば面影残ってるね」
「それで、、ですね…」

わかってくれたことに安心しながらも、口は緊張したままだ。うまく説明できそうにないので、一直線、ふたりの「約束のモノ」を鞄の中から取り出した。薄緑色の表紙は長らく棚の奥で眠っていましたよ、と語るかの如き褪せ方をしていたが、分厚めの連弾用の楽譜だった。

「それ…」

馴れなれしかった彼女の表情は急に元にもどっていき、頭の中で色々な思い出や感情・次の言葉を組み立てようとする様子が外からも見て取れた。

「ちょっと、せっかくだから家に入りなよ。話しましょ」

(4)

居間のソファーでそわそわする拓也。彼女はキッチンで紅茶を用意している。どうやら家族はまだ誰も帰ってきていないみたいだ。少し離れたところにピアノを見つけた。拓也の家とは違い、写真やぬいぐるみの物置にはなっていなかった。上には十数冊の楽譜。今でもたくさん弾いているのだろう。しばらくして、「ゆっくりしていってね」と少し慣れない手つきで紅茶とお茶菓子が運ばれ、ふたりは斜めに向かい合った。

「あの…吉川さん」
「ふふ、幼馴染なんだからそんな丁寧じゃなくていいよー。昔みたいにユミちゃんとでも呼んで」
「いや…それはちょっと、恥ずかしい…ですよ」
「はは、控えめなのは昔から変わってないねー」

変わってないのはお互いさまだよ、拓也は心の中でつぶやいた。控えめに。

「久しぶりだよねー今何してるん?」
「うん、大学で、経済学部、一応単位はとってるけど」
「へぇ〜すごいね。入試とか大変だったでしょう。難しそうだよね」
「いやいや、難関でもないし、なあなあでここまで来た感じだよ」
「そうそう、私は音大のピアノ科に行ってるの。相変わらず鍵盤を叩いてるわ」
「そうかー。昔から上手だったから、わかるわかる」

ここで一旦話が止まった。ふたりはゆっくりと紅茶をすすり、拓也の鞄から顔を覗かせている楽譜に目を留めた。少し間をおいたあと、友美子が口を開いた。

「約束の…楽譜だね。憶えていてくれたんだ。」
「あ…今日ふと思い出して、いても立ってもいられずここまで来ちゃった。」
「そうなんだ…それで、遅くなったけど、連弾、一緒にやるの?」

こう聞かれて、拓也は一瞬固まってしまった。そうだ、こうして楽譜を持ってきたということは約束を果たしにきたということだ。けれど、随分ピアノから遠ざかっているので弾けそうもない。まして相手は音大生だ。会いたい一心で勢いで来てしまった。ここでやらないと言ったら彼女はがっかりするだろう。でも無理な仕事は無理であるし、逆に引き受けてできないとわかったら尚更がっかりさせてしまう。

「嬉しいな…」
「ごめん!申し訳ないんだけど、俺、もうずっとピアノ弾いてなくて、今とても弾けそうにないんだ。今日は、約束思い出して、会いたい気持ちで一杯になって、それで…」

友美子の声をさえぎって、拓也はまくしたてた。彼女は、少しだけ微笑んで、ソファーから腰を上げ、奥にあるピアノの方向へゆっくりと歩いていった。少し寂しそうな後姿が拓也の目に映る。

「そっか、ちょっと残念」
「ごめん…」
「何でやめちゃったの?」

「それは…中学入ってしばらくしてさ、曲も難しくなって、何回練習しても弾けない部分もあって、指もスムーズには回らないしさ、自分にはプロのピアニストみたいになれる才能はないから…急に…それにさ、俺何やってもダメでパッとしないし…」

必死に取り繕うが、ここで言葉に詰まってしまった。友美子は無言で、おもむろにピアノの蓋を開け、人差し指で鍵盤をゆっくりと押してメロディを綴った。それは紛れもなくふたりが小学5年生のときに一緒にやった曲だった。ポロン、ポロンとシンプルな音が広い居間の空間に響く。拓也にはこの時間が非常に長く感じた。彼女は少し考え事をしているようだった。そして、曲も終わり、人差し指が鍵盤から離れると、静かに口を開いた。

「私ね、最初こう言おうと思ったの。自分に自信がないのは相変わらずね、あなたの周りにはあなたと同じことをしている人たちしかいないから自分は大したことないと思うのかもしれないけど、大学受験に受かって経済学に取り組んで、外から見れば立派なことだわ。ピアノだって、技術だけじゃない、観る人も一緒に弾く人も本当に楽しませるように弾くことだって大事なこと、あなたにはそれがあった…

「…でも、こう言おうとして、自分にはそう言えた立場がない、って気付いたの。実はね、私ピアノの道を選んだけど、これはお母さんの夢で、私はお母さんに喜んでもらいたくて、ただ言われるがまま弾いて、確かに技術はついたけど、これも音大生なら当たり前のことで、全然楽しいと思わなかった。こんななあなあで続けてる自分が嫌になって、やめちゃおうかな、って思ってたの。でも今更、これ以外に自分ができるものがなくて…

「…でも今日拓也くんに会えて、昔の楽しそうな演奏、思い出した。自分も心から楽しんで弾いてたときのこと。自分の意志がなかったダメな私に気付いたの。お互い自分の持たないものを気にしすぎて、自信をなくしちゃったのよ。ねぇ、今の曲、ちょっとは指が憶えてるでしょ、隣に来て。一緒に弾いてみようよ。」

拓也はピアノのほうへ向かった。彼女の、小学生の頃と大差ない小さな背中が重そうにみえた。コホンと一回、気持ちを落ち着かせて、何年ぶりかのピアノの鍵盤を叩き始めた。友美子もそれに合わせ音を重ねていく。もちろん音に間違いはあったが、不思議にも気にならなかった。曲が進むにつれ、拓也と友美子、微笑がこぼれてきた。

「ね、楽しいでしょう?」


「帰りは送っていくわ。」

すでに日は暮れていた。冷たい風と電燈の光に照らされ、ふたりは駅までの道を歩いていった。拓也は、友美子の内面をみた気がして、ちらちらと視界に入る横顔が夢のときのように可愛らしく、愛しくみえてきた。

「ねぇ、約束の曲、徐々にでいいから一緒にやろうよ。」

彼女の申し出に、拓也は断る理由がなかった。自分がこれまで気にしていたことが些細なことであったのに気付いた。それは彼女にとっても同じことで、ふたりの時間と心の穴を埋めるのにはなくてはならないものだった。

「うん…」
「私ね、まだこの曲他の人と弾いたことがないのよ。いつか一緒にできるって信じてたから…」

ゆっくりと言葉をかわすうち、周囲の光はだんだん明るくなっていき、駅前の賑やかな繁華街へと入っていた。そして、駅の切符を買い、自動改札機を通る。拓也は挨拶のため後ろを振り向いた。改札を挟んで、向かい合う。今度は、改札機が小さく見える。

「それじゃ、また」
「うん。今度電話するね。」
そう言ってホームへの階段に足を向けようとしたとき、元気な声が響いた。
「ちょっと、ピアノ、私の練習は厳しいからね!ビシバシ指導するから覚悟しておきなさいね!」
拓也は振り返って、思わず笑う。彼女も無邪気に笑っている。
「まったく、キミって人は…」
「ん?なあに?」

何でもないよ、と返して、思う。あの時と変わってないよな。でも変わったのは、気持ちが晴れ晴れしていたことと、お互い方向は別々だけど行く道がしっかりと見えているということだ。

あとがき

test