Overwhelming

この夏はパリ五輪をよく見ている。世界最高を争う技能と体力でしのぎを削り、ほんの僅かな部分で勝敗が決する様子は心を沸き立たせる。体操は手に汗握る展開で、サッカーの快進撃が目を引き、バレーボールやバスケットボールも強豪国相手に頑張っている。数年前の東京五輪は、競技以外の部分で準備段階から問題が多く、嫌なら見るなという話があったとおり実際に嫌だから見なかったので、全く印象に残っていない。かなり久しぶりの五輪の舞台を見て楽しんでいる。

スポーツの世界大会の魅力には、僅かな勝敗の機微もさることながら、圧倒的な実力を示す競技者の存在がある。素人目でみても圧倒的に実力の差があると感じさせる強者は、英雄的であり、強い爽快感を見る者に与える。野球でも大谷翔平選手の圧倒的なパフォーマンスは多くの人を楽しませている。最近の青少年向けの物語は、泥臭い努力で薄氷で勝利するよりも、チート能力で無双するものが人気である。情報が氾濫し少しのことでは埋没しがちな時代において、圧倒的に抜きん出て目を引くということが強い魅力になっているのかもしれない。

パリ五輪では、柔道を始め、判定がよく問題となっている。まさに勝負を分ける場面で判定が左右してしまうのは残念ではあるが、個人的には、圧倒的な実力の差で勝利することができない以上、その時々の勝負の綾で決まってしまうことはあり得ることであり、自分でできることを尽くし結果を待つというのが気持ちがいいと感じる。体操・中国の張博恒選手が、団体でも仲間のミスに泰然とした態度で、個人でも最初の種目でのミスがありつつも粘り強く1位に迫るまでベストを尽くす姿勢が王者たる風格で素晴らしいと感じた。

このような話はスポーツに限らない。以前、お笑いのコンテストで採点基準が物議となったが、もとより評価が難しい領域であり、誰もが一番よかったと思うようにその場の雰囲気を持っていく圧倒的なパフォーマンスでない以上、好き嫌いで差がついても仕方がないことのように思う。多くの人の仕事でも、圧倒的な成果があるというのでなければ、ほんの機微で評価が得られたり得られなかったりする。その評価に不満を抱くよりも、目の前の仕事でベストのパフォーマンスを発揮することに集中することを優先させたい。

私は東京で生まれ育ってきて、競争意識や評価の視線がストレスで仕方がないところがあった。今の仕事は、評価はいずれにせよ目の前のひとつひとつの仕事に責任感とやりがいがあり、上記のストレスがかかりにくいもので、よかったと感じている。もっとも、ある程度の年数をこなしてきて、家族のことなど仕事以外のことも抱えるようになると、圧倒的なパフォーマンスを目指すという意識が薄まりやすくなっているようにも感じる。怖いもので、全力を出せない言い訳みたいな事情があると、全力を出して失敗して自分の無力さに直面するよりも労力が少なくプライドを保つことができるため、全力を出すことをやめてしまいがちになる。パリ五輪の選手たちを見て、自分もこれからできることを着々とこなしていきたいと改めて決意した次第である。