映画「グレイテスト・ショーマン」に大いに感動した話

映画「グレイテスト・ショーマン」の概要

先日、兼ねてから観たいと思っていた映画「グレイテスト・ショーマン」を観た。予想以上に素晴らしく、初回はご飯時にも関わらず涙を流し、すでに5回以上繰り返し観ている。ここにその感動を書き留めておきたい。 

舞台は産業革命後のアメリカ。仕立て屋の息子として経済的に厳しい環境で育ったバーナムは、幼少のころから仕事で出入りしていた上流階級の家の娘であるチャリティと結婚し、2人の娘を持つが、生活は厳しいままであった。事務仕事の職場が倒産したことを受け、奇想天外な物を集めたミュージアムを始めるが、流行らなかった。だが人によるパフォーマンスを発案し、ニューヨークの街中から「奇人変人」を募集し、サーカスのショーをヒットさせ、大成功を収める。しかし上流階級から見下される状況は変わらず、これを克服しようと苦闘する。スウェーデンの歌手ジェニー・リンドと組んで称賛を受け、家族やサーカスのメンバーを置いて全米を回る企画を立ち上げる。しかし途中でリンドと仲違いし降板された上、サーカスはボイコット運動をしていた街の白人労働者との喧嘩で焼け落ちてしまう。全てを失ったバーナムだったが、サーカスのメンバーらに励まされ、「家族」の大切さを噛みしめて、波止場のテントで再起する。

歌やパフォーマンスは素晴らしく、特に、カーライルとアン・ウィーラーの「rewrite the stars」の曲で出てきた「inpossible」や「wall」といったワードが最後の「the greatest show」の曲中、2人のパートで出てきたときは鳥肌が立ったし、ジェニー・リンドの「Never enough」の曲もまだまだ満足しないといった上を目指していくシーンにピッタリでまさに圧巻であった。

 

サーカスのメンバーがあまりに簡単にバーナムを赦している?

私は極上の歌やパフォーマンス、魅力的な登場人物のみならず、本作のストーリーにも大いに感動した。だが、後にインターネットで検索してみると、本作は批評家からの評判がいまいちなようで、レビューサイトでもストーリーがよくない、薄っぺらいとの記述が多くあった。中でも、サーカスのメンバー達がバーナムから置き去りにされていたにもかかわらず、バーナムを簡単に赦すシーンが納得いかないというものをいくつか見た。しかし私自身はこのような評価には同意できない。むしろ、ここでバーナムとサーカスのメンバーで何かひと悶着起こすほうが不自然だと感じる。

まず、サーカスのメンバーは、バーナムから置き去りにされてもサーカスを自分たちの居場所と確信し、守ろうとしていた。バーナムから上流階級とのパーティから締め出されたサーカスのメンバーは、悲しみを振り切って名曲「This is me」を歌い、ショーで上演し、喝采を受ける。そしてバーナムが劇場に来る機会が減っていることに愚痴を述べつつも、サーカスを辞めたりせずに続け、ボイコット運動の人たちと喧嘩をしてまで劇場を守ろうとした。生まれてからサーカスに来るまでの間、親からも疎まれて隠れて生きてきた辛さは、バーナムの仕打ちよりも強いものだったであろう。この問題はサーカスのメンバーの中である程度消化され、ショーにも昇華されていた。

次に、バーナムは、リンドとの仲を踏みとどまり、サーカスに戻ってきた上、自らの命を省みず炎に包まれた劇場に飛び込んでいき、この間サーカスを支えていたカーライルをその手で救い出している。バーナムとの関係で苛立っていたなどとして遠因があったとみることができるにせよ、劇場の火災の直接的な契機は、サーカスのメンバー達がボイコット運動の人たちと起こした喧嘩である。サーカスのメンバーは、今までボイコット運動にもずっと我慢してきたのに、と火災で居場所を失う事態となったことについて自らに全く責任がないとの感覚にはなれないであろう。その中でバーナムが命を懸けてメンバーの命を守ったのである。ここまでやってまず悪態をつくだろうか。やはりリーダーはバーナムだという方が自然ではないか。

さらに、「come alive」の曲に表れていたような、バーナムのサーカス立ち上げ時の力強い希望の言葉は本物であった。バーナムはショーの中心で自らパフォーマンスをしていた。奇人変人を見世物にして偏った受けを狙うだけなら自分は舞台に立たないであろう。2人の娘も客席で心から楽しんで踊り、バーナムは素晴らしいショーだと自信をもって提示していた。バーナムの言葉に真実が含まれていたからこそ、チャリティに始まり、サーカスのメンバーも、カーライルもリンドもバーナムに付いてきたのである。バーナムがサーカスを置き去りにしたとしても、最初の言葉から全て嘘であったと極端に振れることにはならないであろう。

バーナムの変化について、バーナムは「from now on」の曲で「pithole(落とし穴)」にはまったと表現している。この変化の契機となるエピソードは2つある。バーナムの娘がバレエ学校で同輩から「ピーナッツ臭い」(バーナムのサーカスはピーナッツを食べながら見る「ピーナッツショー」と形容されていた。)といじめられているのを目撃したこと、リンドとの初めての公演後のパーティーで衆目に晒された状態でチャリティの父親から「一生仕立て屋の息子だ」と蔑まれたこと、である。私でもこんなことがあれば到底心穏やかではいられない、非常に強い怒りを掻き立てるエピソードである。

そして、妻であるチャリティは生まれが上流階級であり、いくらチャリティの方から綱渡り(tightrope)を一緒にする覚悟を示されたとしても、上のエピソードでの喪失体験を埋め合わせるパートナーにはなり得ないのである。むしろ、チャリティの父親との場面を救い、自らも婚外子としてバーナムと同じような悩みを抱いていたリンドがバーナムの喪失を埋め合わせるパートナーになる。バーナムがリンドとともに突っ走っていってしまうのはよく理解できる。

しかし、他者への反動に基づく行動は、結局他者のために生きていることとなって、自分自身を見失ってしまう。最初のショーで示した情熱も薄れ、自分の周囲の大切な家族も見失ってしまう。バーナムはリンドから求愛を受けた時点でハッと気が付いて、サーカスや家族の元に戻ろうとする。しかし気が付いたのが遅く、一度全てを失ってしまうのである。私としては、このような話の流れや構成は非常によくできていると感じた。

 

誰がバーナムのサーカスを支持し、誰がボイコットしたか。

本作で違和感を感じることがあるとすれば、実在の人物バーナムについて知識がある場合、史実と異なる描かれ方をしている、というものがあるだろう。だが日本ではこのような予備知識は基本的にはなく純粋なフィクションとして楽しめるだろうし、史実と作品は別物と捉えるほうが適切だろう。だが、私もこの作品で違和感を感じなかったわけではない。バーナムのサーカスは、立ち上げから最後までずっと白人男性で構成された肉体労働者の集団から激しいボイコット運動を受けているが、当時、こんなことはなかったのではないか、むしろ現在の社会情勢を投影したものではないか、ということであった。

上流階級が大衆娯楽を見下し受け入れないのはわかる。バーナムはこれを克服しようとしている。だがボイコット運動をしている人たちがあそこまでする理由は見えてこない。あるシーンで「俺たちの街のイメージ」といったことを言うが、街のイメージのためにあのような活動をする人たちには見えない。現在の移民やマイノリティ排斥の動きは、グローバリゼーション等で「自分たちの仕事が奪われている、脅かされている」という経済的観点からの被害者意識が大きいと考えられるが、サーカスが彼らの仕事を奪うことはあり得ない。このような点から、ボイコット運動をする人たちにあまり現実味を抱くことができなかった。

だが、現在を投影していると見たとき、いくつかの示唆を感じることができる。上流階級の人たちとボイコット運動の人たちは接点がない、だがバーナムのサーカスへの拒絶という点では同じ方向を向いている。また、バーナムはもちろん、サーカスのメンバーも、サーカスを楽しむ観客も、登場する誰もボイコット運動の人たちを説得しようとする、楽しさをわかってもらおうとすることを一切しない。最後も特に言及されない。近年、ラストベルト、忘れられた人々といった言葉を聞くが、それに通じるものがあるだろう。

バーナムのサーカスは作中で批判に晒されてばかりといった点が目立つが、非常に人気で大成功を収めている。支持したのは誰かを考えると、産業革命で生まれた中間層であろう。半額クーポンの付いた新聞も読み、経済的にも時間的にもある程度余裕が出てきた人たちである。彼らは純粋にショーを楽しむほか、強い自己主張をせず、政治的にも穏健な立場にみえる。他方、現在のリベラルを投影した人物はいないか探してみると、批評家ではないかとの思いを抱く。最初はスノッブで叩き、サーカスが焼失した後は、自分は安全圏からヒューマニズムだ、再建してほしいと言葉だけで、具体的に力を貸すこともない。

ここまでいくと脱線だろう。だが現在の世界にも思いを馳せて、自分を振り返るのも悪くない。障害にも他者の悪意にも負けず、生きる情熱をぶつけてひたむきに進み、仲間や家族を大切にする。そんなサーカスの皆の生きざまに勇気をもらって、よく生きていこうと思える、素敵な映画であった。