権力者の周辺者問題

昨今、政治、ビジネス、芸能など様々な分野において、権力者による権力構造下での不法・不徳の事象が明るみとなり、騒ぎになっている。そこで矢面に立たされた権力者の振舞いは、人の上に立つ者として期待されるものとは程遠く、なぜこのような者が各界の権力者として地位を築いていたのか疑問を感じさせるものも多い。論理よりも人的関係による「空気」が支配をし、声の大きい者が突出するというのは、「空気の研究」や「失敗の本質」などの文献で昭和の頃から何度も分析されてきたものであるが、今でも同じようなことが繰り返されているのだと感じる。権力の濫用傾向のある者に対し、争いを好まない周辺者たちが自然と気を遣うことが積み重なり、結果として大きな力を持ちすぎるということであろう。

このような問題をどう解決するか。ひとつは、権力者自身がよい振舞いをするよう自律を促す君子論的なアプローチがある。最近のリーダーシップ論では、調整型・支援型といったあり方が推奨されている。しかしながら、人の本質を変えることは難しく、異なる手法で上に昇りつめた成功体験のある者が柔軟に態度を変えるというのは期待しにくい。もうひとつは、突出を生まない仕組み作りといった組織論的アプローチがある。政治の分野では独裁の問題や権力分立など様々な仕組みが取り入れられてきた。また、会社組織においてもコーポレートガバナンスの問題として取り組みがされてきた。しかし、現在においても問題は後を絶たない。特に政治の分野では、良識の中で形成されてきた慣例をあえて破り濫用的に人事権等が行使されるなど、近年むしろ悪化しているようにみえる。これらは永遠の課題といえるような状況がある。 

私が最近の情勢を見ていて思うのは、権力者の周辺者に焦点を当てるべきではないかということである。濫用傾向のある権力者に気に入られるように振舞って地位を得て、少なくとも権力の濫用に黙認、時には加担することもあるが、問題が生じても当然にその地位を失うわけではない。直接関わってないとして大して罪悪感も抱かず、むしろ自分の被害者のような意識もあり、改める契機にも乏しい。濫用傾向のある権力者に気に入られようとはしない者であっても、権力濫用の矛先にならないよう問題を避け、増長の歯止めになろうとすることはほとんどない。権力者に逆らえない空気があるというが、その空気自体は勝手に生まれているのではなく多数いる周辺者が形成に加担しているものである。善悪の指針のなさ、責任回避、被害を受ける者への共感性のなさといった態度を積み重ねたものである。濫用的な権力者があることをきっかけに問題視され、堰を切ったように問題が噴出しても、権力者の周辺者が変わらないままでは、何度も繰り返されるし、むしろ告発者が抑圧されて結果的に悪化することにもなりかねない。

それでは権力者の周辺者の問題をどのように解決していくのがよいか。ひとつは「言語化」ということが考えられる。多民族国家は暗黙の合意が難しいので契約社会になるという。国民総インターネット社会となり衆目に晒される危険が大きくなった現在においても、問題を言葉に表現し納得させる力が特に重要になってきているであろう。権力者(リーダー)側についてみると、好き嫌いではなく、行動や評価についての原理原則や指針を表現することができ、他者に予測可能性と心理的安全性を提供することができることが重要である。原理原則においては、自由主義社会の根本原理として「より個人を抑圧しない手段を用いることが望ましい」という価値観を有していることが求められる。

そして、具体的な評価の指針については、数あるスキルや能力を整理した上記のような書籍が参考になるだろう。中でもきちんと後継育成をする態度があることも重要と考える。年長であることが多い権力者(リーダー)が、自分の後に残される人のことを考えているか、どうでもよいかと考えているかは周辺者自身の利害にも直接関わり、感じ取りやすい部分であろう。権力者の周辺者においては、上記のような権力者(リーダー)が望ましいという選好を表現するとともに、目標とする立場に向けて自身のスキルを高めることになるだろう。上記の書籍によれば、リーダーシップのみならず、フォロワーシップというスキルも表されており、今後注目されてもよいであろう。以上のような周辺者論からのアプローチも加わって、権力者による権力構造下での不法・不徳の事象がなくなることを期待したい。