捨てる

最近、物を捨てることが多くなった。学生時代の服はさすがに合わなくなったし、増やすばかりでは自宅の収納スペースも限界になる。何かを買うときは何かを捨てることを意識するようになった。とはいえ、自宅にある物を見ると、買った場所や一緒にいた人、着たり使ったりした場面の記憶や思い出が呼び起こされる。買った店はもうなくなっていることも多い。捨ててしまうと思い出を呼び起こすきっかけもなくなってしまうような感覚になる。

一時期、せめて写真を撮っておいて画像データを残すことも考えたが、結局やめてしまった。物だけ無造作に撮られた写真では甘美な思い出とは結びつかない落差のようなものを感じ、また、捨てるときはまとめて行うことが多く、幾つも撮っているとキリがないからである。それに、過去を振り返ることに時間ばかり使って今後の新しい物との出会いを蔑ろにするのもいけない。

物だけでなく、記憶も昔ほど残らない感覚がある。もちろん加齢によることもあるだろうが、憶えようとしても憶えられないというものとは違う。仕事を10年以上続け、繰り返しの部分など頭にとどめておく必要がないものはその場で過ぎ去るような感覚である。自然と取捨選択をしているようなもので、新しいものを手掛けるときはよく憶えている感覚がある。とはいえ、これは記憶の収納スペースが限界に近づいていて、入庫するものを絞っているようで物寂しい。体感時間は加速度的に短くなっていくというが、全人生の中の目の前の時間の割合はどんどん小さくなる。目の前の出来事を大切にして残すことを意識しないと過ぎ去っていってしまう。

最近、身体が元気に動くうちにできることはしておこうという思いで、新しいこともやっている。実家にも自動車がなく自動車と無縁の人生を送ってきたが、ついに自動車を購入したし、テントやタープを買ってキャンプに行くようになった。ブログは更新頻度がすごく少なくなってきているが、捨てた感覚は全くない。先に述べたように体感時間の変化によりブログ書こうかなと思う客観的な間隔が延びていってしまっている感じである。プライバシーの観点から話題が制限されるなど神経を使うことが増えてしまっているが、環境を整えて続けていけるようにしたい。

g.o.a.tがサービス終了するので投稿記事をまとめた

g.o.a.tというKDDI系のブログサービスがある。記事ごとに背景画像やレイアウトなど編集でき、雰囲気のよい記事を書くことができる。私も少し使っていたのだが、2022年5月にサービス終了するらしい。そこで、投稿していた記事を移すことにした。今振り返って少しコメントもしてみたい。

サービス継続が難しかった理由は、スマホに対応していなかったことだと思う。スマホが高機能化し、パソコンは仕事、スマホが余暇といったすみ分けになりがちである。私もスマホアプリが出たら投稿続けたいなと思っていたところであった。

インターネット上で発信するということ Nov 11, 2018

g.o.a.tを始めた。記事ごと素敵な写真やレイアウトを活用できるので、さらっと考えたことを書き留めるのに向いていると思った。さっそく書いてみることにする。

私は、大学時代にジオシティーズでホームページを開設したのを最初に、何らかのかたちでインターネット上に文章を書いてきた。その間、インターネットの環境は大きく変化し、仕事が忙しくて更新間隔が数か月空いてしまうこともあるが、インターネット上で文章を書くことを完全にやめようという思いにはなったことはない。その理由を考えてみると、「私的空間の拡張」という言葉がしっくりとくる。別に誰かと議論したいわけでもないし、有名になりたいわけでもない。自分の興味のあることを語ることで、同じ興味を持つ誰かとゆるやかにつながるような感覚があって楽しいのだ。

このような「私的空間の拡張」としてのインターネットの使われ方は、他にもみられる。例えば、ゲーム実況は、子どもの頃、お家で友達とテレビゲームをした楽しみを手軽に実現したいという動機が主であろう。だが、インターネットは全世界に開かれた「公共空間」であり、不特定又は多数人に向けたものとして扱われ、公共空間のルールが適用されてしまう。ゲーム実況は著作権上の深刻な問題を抱えている。

ジオシティーズ全盛の時代は、インターネット全体がそのような「私的空間の延長」としての性格が強かったように思う。それぞれ今では考えられないようなプライベートなことも書いていたが、お互い深くは立ち入らなかった。掲示板では、これまで居酒屋などで発されてその場で消えていたような陰口が交わされていたが、これも本来公然となってはいけないアンダーグラウンドなものといった位置付けとされていた。

だがインターネットユーザーが増えるにつれ、「ブログ炎上」「殺害予告の通報」といった仲間内の関係性の中での悪ふざけのような行為が「公共空間」のルールの下、得体のしれない脅威として語られる騒動が起きるようになり、最近では言葉足らずになりがちなTwitterでの発言で処分されたりといった事件も起きている。また、反対に「公共空間」が「私的空間」に侵食されている状況もみられる。それまでは公にすることが憚れていたような偏見や差別的言辞が、公然と語られていいことだと同調を得るようになり、世界各国で政治まで動かすようになり、個人や団体が攻撃を受けることも多くなってきている。

このような環境の変化の下では、「私的空間の延長」としてインターネットを使うことのリスクは高まるばかりである。だが、それで委縮してしまうのではなく、何とか調和が図れたらと考えている。ひとつの方法としては、インターネット全体に公開されている場では、「公共空間」としてゆるやかな仲間を集める最低限の範囲で振る舞い、その次の段階として、別に仲間内で公開して交流できる場を設けることが考えられる。例えば、ニコニコ動画のコミュニティとコミュニティ限定動画・放送といった仕組みが妥当するだろう。ブログにおいても、全体公開記事と相互フォロー間の限定公開記事の2段階を設けることがひとつのアイデアだと思う。

(コメント)最近はYouTubeが隆盛である。動画での発信の在り方や、自分がもし動画で何か発信するとしたら、といった考えを別に記事でまとめてみたいと思う。

 

お気に入りの靴を履く Nov 19, 2018

私は大学生の頃はアルバイトもあまりしていなかったので、節約を重ねて過ごしていた。買い物もお洒落さより機能性や価格を重視し、ブランド品は敵視すらしていた。だが、内心は、お金に余裕があったら欲しいなと思っていながら諦めていたものもあった。

今は働いて収入も得るようになったし、あまり年齢を重ねると身に着けることもできなくなるので、せっかくだからと当時欲しかったものを買うことがある。先日購入したニューバランスのスニーカーは、その中の一つだ。アルファベットで大きなエヌのマークが入った、いかにもな靴である。

足を入れてみると履き心地は抜群で、ちょうどいいフカフカ感が病みつきになる。一番上で輪っかを通す靴紐の結び方もお洒落だ。最近、休日はこの靴で歩く感触を楽しむために公園や街に行く。外出が楽しくなる。

「ゴールデンタイム」というライトノベルがあって、大学生活のあるある話が盛りだくさんの作品なのだが、主人公がニューバランスのスニーカーを手に入れて喜ぶシーンがある。まさに今の自分が同じような喜びを感じていたところで、思わずふふっと笑みが零れた。

(コメント)ニューバランスのスニーカーは今でも愛用し、スポーツウェア全般をニューバランスで揃えるような感じになっている。

 

オーバーブッキングの思い出 Nov 23, 2018

JAL羽田発福岡行きの便がオーバーブッキングで欠航となったとのニュースがあったが、自分もオーバーブッキングに遭遇したことがある。大学時代、友人達と行った初めての海外旅行であった。パリから成田に帰るエールフランスの便で、空港の窓口に行くとオーバーブッキングのため振替えを募る場面に出くわした。私達は大学のイベントがあったので、振替えには応じなかった。だが、学生然としていて融通が利くと思われたのか、強制的に10時間後の便に変更させられてしまったのだ。これにはびっくりした。

その後補償の手続きをしてもらった。当時はユーロのレートが高かったので、滞在中の実費を取り返し、更にお小遣いがあるくらいのいい金額になった。空港での10時間滞在が始まる。ここで隣に座った人と新たな出会いが…なんてことはなく、お喋りをしたり持参していた本を読んだりして過ごした。食事は、補償として空港内のレストランの食券ももらったのだが、メインディッシュがタルタルステーキという生肉の料理であった。卓上の調味料を駆使して何とか食べることができた。私は大丈夫であったが、友人の一人は帰りの飛行機の中でずっと具合が悪かったらしい。結局大学のイベントには間に合ったが、非常に消耗して疲れた状態で臨むことになってしまった。

今では笑い話であるが、オーバーブッキングには出くわしたくはない。

(コメント)その後の海外旅行はツアーで行くことが多いので、こういった出来事には出くわしていない。もし遅れて仕事に支障が生じると大変だ。

 

「行きつけのバー」への憧れ Nov 27, 2018

新垣結衣松田龍平のドラマ「獣になれない私たち」を毎週観ているのだが、クラフトビールのバーで知り合い、関係が生まれていく設定になっている。そこで諍いを起こしながらも常連同士の関係は続き、大人の人間関係だな、いいなあなんて思う。

私はこれまでバーはもちろん、喫茶店でも散髪でも常連のお店というのを作ったことがない。むやみに話かけられたりしないチェーン店の方が気楽でいいやという考えでずっと生きてきた。それは思春期の頃に吃音があって会話が苦手だったとか、一人で過ごすのに慣れきっていたとか振り返れば色々と理由がつくのかもしれない。

だが最近は話も苦痛ではなくなって、少し世界が広がったらいいなとの思いがある。何か個人で創作活動をしている人と話をしてみたい。

ひとつの課題は私はあまりお酒が飲めない(飲むと体調が悪くなりやすい)ことである。コーヒーやお茶が好きなので、その方面のメニューが充実しているバーか、夜遅くまで空いている喫茶店などがあったらぴったりだ。

そうこう考えているうちに時間が流れて行ってしまいそうだが、とりあえず吉祥寺とか、中央線沿線でいいお店がないか探してみたい。

(コメント)東京にいた頃少し探してはみたが、勇気がなく結局行かずじまいであった。新型コロナで行く機運もなくなり、もっとお酒が飲めなくなり、なかなか難しいかもしれない。今は自宅でカフェ気分を味わえるようにインテリアを工夫したりするのがよいであろう。

 

コーヒーの愉しみ Dec 1, 2018

私はコーヒーが好きだ。ほぼ毎日のように飲んでいて、しばらく間が空くと頭痛がし、コーヒーを飲むと治る。これは好きを通り越して中毒かもしれない。そんな私だが、粉や豆を買って淹れるようになったのはここ数年にすぎない。それまでは専ら溶けてなくなるインスタントコーヒーであった。ドリップコーヒーすらガラの処分の面倒さが美味しさの差に勝ると考えて手を付けなかった。それが今では、色んなお店で豆を買って、ハリオの器具を使ってコーヒーを飲んでいる。

このような変化のきっかけとなる出来事は2つある。ひとつは、数年前、外の仕事があった際、朝早く着きすぎてしまってスターバックスで待つことにした。そのときに飲んだホットコーヒーが、これまでなかったくらい、とても美味しく感じたのだ。これで少しコーヒーの味に興味を持つようになった。もうひとつは、コーヒー好きの妻と出会ったことで、器具などを教えてもらいながら、いろいろ試すようになった。新鮮な豆を挽いて、空間に広がる香り、ドリッパーにお湯を注いだときに膨らむ瞬間、カップの中で黒々と湛えられた様子に幸せな気持ちになる。

最近、コーヒーの科学という本も買った。コーヒーの栽培ができる地域は限られているようだが、東京メトロの野菜栽培みたいなのを応用して、東京で栽培からカフェでの提供まで実現するみたいなことはできないだろうか。リアルに実現できなくても、フィクションの中で実現に向けて奮闘するストーリーが描けたら面白そうだ。カフェの名前とストーリーのタイトルは同じで、「オール・メイド・イン・トーキョー・コーヒー」。そんなことを考えている。

(コメント)今も自宅でコーヒーを飲みながらこれを書いている。職場ではインスタントだが、もっと工夫してみたい。

 

楽しみ方は足し算で Dec 16, 2018

私は子供の頃から、四つ葉のクローバーを探すのが上手い。上手いというのは自分がそう思っているだけかもしれない。普通の人は、そもそも探そうとしていないからだ。

小学生の頃、通学路の芝生を通る中、毎日のように見つけて摘んで帰っていた。家族のみんなは喜んでくれて、とてもいい思い出である。見つけ方は、立ったまま上から見下ろし、怪しいと思った部分を確認する、といったものだった。

その流れで、今でも散歩や旅行で芝生を通りかかると、自然にクローバーを探してしまい、四つ葉があれば見つけて摘む。

以前いた職場では、付近の公園でふと見つけて摘んで帰ったら喜んでくれてハガキに押し葉にして分かち合ったりもした。家に持って帰ることもあるが、妻はあまり喜んでくれない。曰く、子供ならいいけど、ということである。

だが、年を重ねて色々な経験をすることで喜びが減っていくというのは空しいのではないか。子供の頃の感動も残しながら、子供の頃には感じられなかった大人の楽しみを足し算していく方がいいのではないか。

そんなことを思いながら、ひっそりと摘んだ四つ葉のクローバーを押し葉にして楽しんでいる。

(コメント)最近は芝生に通りかかる機会も少なく、探せていない。

 

恐竜の末裔たちとの戦い Jun 3, 2019

恐竜は絶滅した、というのが幼少時代の定説であったが、現在では、羽毛のある恐竜の化石などが出土し、鳥類として生き続けていることになっているらしい。私はそんな恐竜の末裔たちと戦いを繰り返す人生である。

具体的な戦いの相手は、ハトである。

拍子抜けすることなかれ。ハトというと平和の象徴のように言われているが、とんでもない、真逆である。うなり声のような聞き苦しい鳴き声、一度住処と狙いを付けたら繰り返しやってくる執念深さ、糞の問題、人間の平和をかき乱す要素しかない。世界中に溢れているのに法律で保護されているのも納得いかない。団地で生まれ育ち、独立後もマンションに暮らしているため、ベランダや軒など狙われやすい。私はこの4月に転居し、結構な高層階なので来ないだろうと思っていた。だが、入居して数週間、気持ちいい朝のはずが、ベランダから聞こえる不吉な羽音、うなり声。

襲来である。

普段の洗濯は乾燥機を使っているため、ベランダでの物干しや出入りが少ないので狙いやすかったのだろう。件のハトはエアコンの室外機の周辺に狙いをつけているようだ。ここで幼少期から続く戦いが再び幕を開けた。

実家にいた時代は、インターネットの情報など発達しておらず、気が付いたら追っ払いに行く、水を入れたペットボトルを置くといった原始的な撃退法であった。今は情報収集や道具の調達が容易であり、妻と協力して色々と調べた。その結果、ハトの対策について以下のように整理した。

  1. 驚かす系(ネコやカラスの置物など)は約1週間で慣れて効果が切れる。
  2. ベタベタ系(ハートジェル)は非常に効果がある。
  3. 最終手段は、手すりにワイヤーロープ、物の周囲にハト除けネット。

まずは対策物の調達まで1の気休め対策を行った。効果が切れることを見越してコストをかけず廃棄も簡単なものを。具体的には、ネコの画像をプリントアウトして、ベランダに面した窓に張り付けておく。実際、1週間程度効果があった。

その間に、2のベタベタ系の商品を調べ、通販(Amazon)でハートジェルという商品を購入した。袋タイプとカートリッジタイプがあり、カートリッジタイプの方が塗りやすいと思ったら、カートリッジタイプはグルーガンも合わせて購入しないと中身が出てこない。結局、袋入りで割りばしで塗りたくるのがベストのように感じた。手にジェルがつくと半日は不快感がとれない。これは結構効果がありそうだ。手すりや室外機に直接塗ると後処理が大変になるので、養生テープを別途購入して貼り、下地を作ってから塗るのがよい。

これで効果がなかったら3の最終手段に移行するつもりで様子を見ることとした。まず、ジェルを塗ってから約1週間は、下地の養生テープのキラキラ感で警戒したのかやってくる気配がなかった。その後、キラキラ感に慣れたのか、以前のようにやってきたようだ。エアコンの室外機に足跡が残っている。ベタベタ感は十分に味わったようである。その後1か月程度経ったが、来る様子はない。ジェルは雨天などを経ても効果があるが、折をみて補充して塗るとよいだろう。

ひとまず、安心である。このままずっと続いていってほしい。今回の対策を経て街中の建物をふとみると、ハト除けネットをベランダ全面にかけているところ、軒に剣山を設置しているところがあるのに気が付くようになった。以下のハートジェルのトップレビューは同じ苦労をしている者として涙なしには読めない素晴らしい戦いの記録である。

www.amazon.co.jp

(コメント)これには後日談があり、時間とともに養生テープが剥がれなくなってしまい、室外機の天板などが汚くなってしまった。色々と剥がそうと試みたが効果はなく、最終的にエアコンのメーカーから室外機の天板を取り寄せて取り替えた。ハトは今でも時々は来て、追っ払っている。当時ほどしつこくはないのでグッズなしで何とかなっている。ハトとの戦いは続いている。

 

キャラクターに宿る命 Jun 21, 2019

大して熟練していないし、最近は仕事が忙しくて全然できていないが、学生時代から小説を作るのが好きだ。当時構想を練った話をいつか形にしよう、というのがいつも頭の片隅にある。小説を作るにあたり、登場人物について深く設定等を詰めていくと、こういうシーンではこう動くだろう、こう感じるだろうと自然に流れが生まれてくることがある。キャラクターが一人歩きするような感覚だ。あたかも意思を持ち、命が宿るようである。

最近私は、キャラクターに命が宿る感覚を突き詰めたストーリーの作品に、非常に惹きこまれている。韓国ドラマの「W(ダブルユー)君と僕の世界」という作品だ。まだ半分くらいしか見ていないが、繰り返し話を観るし、続きが気になって仕方がない。作中の人気漫画の主人公が、作者の意図に関わらず話を変えていってしまう。作者はそれを怖がって主人公を殺そうとするが、主人公は何度でも襲撃や災難を乗り越える。そして作中の世界に引きずり込まれたヒロインとの交流を通して、自らが創作物の人物だと自覚し、現実の世界にも出て、作者と直接対決もする。今まで見た中で最も説得力があり必然性のある「夢オチ」の場面もあった。演じる俳優もとても魅力的で、映像も非常にクオリティが高い。

自らの存在が人為的に作出されたものである、一定の目的の下で造られたものであるということを自覚するというのは、少年時代に遊んだファイナルファンタジー9でも出てきたシーンだ。そのときは、生まれた経緯はともかく、自分の意思で動き、宿命に抵抗する考えも持てるのであれば、普通の人間と同様、生きていると同じじゃないか、と感じたものだった。人間でも、生まれや性別など、自分では変えられない条件を誰もが背負ってる。思春期には、なぜ自分はこうなんだと葛藤があったり、自問自答したりする。格闘しながら経験を積んでいくと、もしその条件が違ったらそれは自分じゃないよね、という感じに自分自身を受け入れられるようになってくる。

Wの主人公が最後はどのようになっていくのか、楽しみである。

(コメント)Wは後半の展開が引き延ばしのように感じた。もっとテンポよく突き抜けるような感じならよかった。主演が同じイ・ジョンソクの「あなたが眠っている間に」は、展開に緩みがなく、最終回のまとめ方も素晴らしく、ひとつ記事を書きたいくらいよい作品だった。

 

2021年のプロ野球日本シリーズに感動した

今年のプロ野球の日本シリーズはヤクルトスワローズが4勝2敗で優勝した。どの試合も常に1点を争い、最後まで結末が分からない、手に汗握る熱戦であった。優勝を決めた後、ヤクルトスワローズの多くの選手が自然と涙があふれていたが、緊張感の連続だったことを思わせる。

私はヤクルトスワローズのファンであったが、最近はプロ野球自体をあまり見なくなっていた(下は当時の記事)。今回、ヤクルトスワローズが優勝しそうと聞き、シーズン終盤くらいから再び見るようになった。日本シリーズの第5戦の山田の3ランホームランや第6戦の川端の決勝打の際は思わず声を上げるくらいのめりこんだ。

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ヤクルトスワローズの魅力は、工夫しないと優勝できない、裏を返せば優勝するときは工夫があって色々とためになるということである。今年は高津監督のマネジメントが際立っており、選手を大事にしてなるべく怪我などで離脱させない、雰囲気を良くするという部分が見事に成功したように思う。戦力としても、奥川、高橋、村上、塩見と若い選手が躍動し、これまでを支えてきた選手たちも踏ん張り、最後まで維持できた。試合中の采配も、合理性に裏付けられ、また決断力のあるもので唸るばかりであった。日本シリーズでも、打者ごとにシフトや配球を練っていたことがわかったし、1戦目でセーブを失敗したマクガフの2回目の登板は、石山を回跨ぎをさせて清水を残すなど次に備えつつ、マクガフを今後使えなくなる事態を避けるため復活の機会を与えるものであった。第6戦で代打川端を出すタイミングもギリギリまで粘った。

これに対し、クライマックスシリーズで対戦したジャイアンツの采配には疑問が残るばかりであった。申告敬遠して菅野が川端勝負して打たれたシーンは、ヤクルトの投手高橋を降ろし、もし川端を抑えられたら流れを持ってこれるという考えだったようだが、1点も与えてはいけない場面であえて状況を不利にする、川端を抑える秘策があったわけではない(投手の頑張りに頼る)、その後の中継ぎを打ち崩す策があったわけでもない、成功すればよいが成功するための準備や努力をしない博打のような采配といわざるを得ない。監督があえて目の前の状況を不利にしてくるようなものである。シーズンでも、終盤、投手の登板間隔を詰めて奮起を促そうとしたが、失敗していた。シーズン後の桑田のコメントで、登板間隔を詰めて回していくためのノウハウがなかったというものがあったが、そういう準備もなしにやらせていたこと自体が問題である。やるならシーズン前から説明し、そのための身体づくりなど技術的な部分を指導しておくべきである。あえて不利な状況にさせられ、自分で頑張れ、できないのはお前が悪いでは選手がかわいそうであり、来年も同じような状況は見たくない。

今年のヤクルトスワローズの選手を大事にするマネジメントは、大学駅伝の青山学院のように、時代に合ったものとして他にも広がっていくことを期待したい。来年はどうなるかはわからないが、力のある選手が潰されず長く活躍することが見る側にとってもよいことだと思う。来年はシーズン初めから応援したいと思う。とりあえず久しぶりにスーパーマーケットでヤクルトを飲んでいる。一時期ヤクルトとミルミルを毎日1本飲むとよいという話を聞いて取り組んでいたことがあるが、実際に体調はよくなるように感じていた。