フジファブリック「TEENAGER」を聴く

フジファブリック「TEENAGER」を聴く

TEENAGER

TEENAGER

 

ここ数年、1枚のアルバムをしっかりと聴く機会がなくなってきた。インターネットで購入した場合は1曲単位がほとんどで、アルバムでもパソコンでの流し聴き、ウォークマンで短時間聴く感じになる。レンタルでも、複数枚まとめ借りで安くなる料金設定だったりするので、1枚のアルバムに集中する余裕がない。そんな中、宇多田ヒカルの新アルバムが昔と同様の売り方でヒットしており、1枚のアルバムを味わうことが見直されているように感じた。そこで、少し割高になるがレンタルで1枚ずつアルバムを借りて、1週間何度も聴くことを試みることにした。宇多田ヒカルの新アルバムから始め、スピッツの新アルバムを挟んで、かねてから聴きたかったフジファブリックの2008年のメジャーでのサードアルバム「TEENAGER」を手にした。

私がフジファブリックを知ったのは、もともとFPMが好きだったところ(UNIQLOCK + FPM - 順風ESSAYS)、昨年借りたアルバムの中に「VERSUS」というJ-POP等をリミックスしたものがあり、その中でフジファブリックの代表曲「若者のすべて」が使われていたことによる。多数の曲がある中で特に惹かれる一曲だった。恥ずかしながら、それまでフジファブリックの存在も知らなかった。このアルバムが出た当時はインターネット上での同人音楽の広がりに注目していて、J-POP等からは離れてしまっていた。同じようなことは過去にもあって、洋楽ばかり聴くような時期があり、その間にバンプオブチキンの盛り上がりを逃してしまい、同世代なのに実感が合わないことがあった。

今回手にした「TEENAGER」は上記「若者のすべて」が収録され、タイトルからもわかるように、10代の若者の心理などをコンセプトにしてまとめられている1枚だ。Amazonのレビューをみても一番に挙げられているので、最初に聴くアルバムとしてもいいだろう。

 

代表曲「若者のすべて

公式のYouTube動画


フジファブリック (Fujifabric) - 若者のすべて(Wakamono No Subete)

 

花火大会は終わってた?

フジファブリック/歌詞:若者のすべて/うたまっぷ歌詞無料検索

この曲の歌詞については、検索すると様々な考察や解釈が書かれているが、そのほとんどは花火大会の当日の話とされている。夕方5時から始まり、この夏の最後の花火だなあ、昔の思い出のある人と会えたらいいけど、会えないよなと思って行ったところ、会ってしまった、という展開だ。そして歌詞の最後の「最後の最後の花火が終わったら」とのフレーズは、花火大会の終わりに思いを馳せる様子ということなり、結局花火大会の最中で終わることになる。普通に歌詞をたどって行けば、このような理解になるだろう。

他方、ウィキペディアによると、この曲は「花火大会が『終わった後』の切なさや虚しさ」を歌ったとされていて、あれれ、と思った。上の理解だと花火大会が終わる前までの出来事になる。ウィキペディアが不正確なのかもしれないが、考えを巡らすと、終わった後の話として捉えることもできるように思った。

確かに、花火大会当日なら、街がざわついているのは当然で、むしろ一年のうち一番騒がしいと言ってもいいくらいだ。いまだに街が落ち着かない「気がしている」なんてものじゃない、とも言い得る。また、花火大会での最中は人も多いし、見入ってしまうので、告白など個人的な思い出イベントが起こるのは、帰り道や別れ際だったりする。歌詞の人物は「ないかな ないよな」などやや優柔不断な性格が見て取れる。こんなことを考えながら、ざっと話を作ってみた。

真夏のピークが去ったとテレビでも言われ、夏の終わりの街一番のイベントである花火大会も終わってしまったが、僕にはまだ落ち着かない気がする。花火大会の後は寂しい感じがするものだが、僕にはとりわけ寂しさを募らせる思い出がある。

 

何年も前のあの日、花火大会に行った帰り道、2人だけになっても、僕は言い出すことができなかった。「ねえ、何か話すこと、ないの」と訊かれたが、言葉が出てこなかった。「残念。もう帰るね」と言い捨てて去っていく彼女の後ろ姿にすがるように「また次の花火のときに、いや、明日、この場所で」と呼びかけたが、「もう最後の花火は終わったのよ」との言葉だけで振り向いてはくれなかった。自分が情けなくて、その後数日引きこもってしまった。来てくれる訳ないと、翌日もその場所には行かなかった。気まずくなって、その後お互い避けたまま、卒業していった。毎年、花火大会の後は、ああ、終わってしまったと後悔が沸き上がる。

 

今年も夕方の学校のチャイムが聞こえてきて、当時のことが思い出されてきた。彼女との関係が続かなかったのは運命だったんだと言い聞かして、なんとか納得させる。今は社会人にもなって当時よりはマシになった。 あの場所に行こうかな、彼女はいないんだけどさ、行って、あの時、又はその翌日言えたらどうなっていたか、思い浮かべるでもしないと割り切れないままだ。擦り傷を抱えたままの心で、暗くなり、街灯が点いていく道を急ぐ。 

 

彼女がいるわけはないと思ったのだけど、会ってしまった。予想外のこともあり、相変わらず何を話せばいいのか迷ってしまう。彼女は花火セットの袋を提げていて、こんなことを言い出した。「あのさあ、花火は自分でやることだってできるのよ。」最後に空高く飛ぶロケット花火を上げて、これが今年最後の最後の花火になる。この後、僕らは変わっていけるだろうか。何年越しであっても、はっきり言わないといけない。

 

言葉にならない、何か。

少し無理のある話になってしまったかもしれないが、いつの話なのか複数考える余地があるように、会う相手が誰なのか、思い出されるのが何であるのかなど、明確にされていない部分が多い。若者の「すべて」という大きなタイトルも相俟って、花火も若者が抱く漠然とした夢や野望の象徴のように捉えることができるように思う。アルバム名と同じ「TEENAGER」でも、いつまでも追いかけていたい、エネルギーは有り余っているし、物足りない感じもするが、肝心の答えは難解でわからない、といったことが語られている。わかった気になって語るよりも、わからないということを素直に語り、表現し、享有することで心に響く感じがする。 

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私も大学時代は昼食時から午後3時くらいまで、時には夕方まで食堂に居座って仲間と色々とお喋りをしていたものだが、今になって振り返ると何をそんなにたくさん話すことがあったのかと不思議な思いがする。講義で聴いたこと、本で読んだこと、ネットで見聞きしたことなどを持ち寄って、あれこれ話していたのだろうが、具体的な内容までは思い出せない。年末などにたまに集まって話してやっと、どことなく思い出されてくる。私はノートやブログなどを書いて当時考えたことを言葉で残しておきたいという思いが強かったが、十分には残していないし、形にしないままのものも多い。その名残惜しさが、今でもブログを続けている理由のひとつでもある。

 

逆さまに写る歌詞カード

「正しさ」が消えたときの空っぽ感

CDには付いているがデータには付いていないのは、歌詞カードだ。少ない紙幅の中で、アルバムの世界観や空気感を表している。このアルバムの歌詞カードは、ジャケットが逆さまになっている女の子、中の写真は、メンバーが林の中で天地逆さまに写っている写真が昼間のもの、夜間のものと続き、最後のページは誰もいないひっそりとした夜の林が天地が正しい位置で載っている、という構成になっている。

若者は、上で述べたように、自ら何を為していくかはっきりと答えが得られることは少ない。その一方で明確な行動基準となるのは、大人たちの言葉だったり、既成のルール等に対し、それと「違うことをする」ことで、これにより自分で何かを選択した気持ちになれる。いわゆる反抗期は、とりあえず違う選択をすることで決定権を自ら得る過程といえる。このままでは反抗の対象に縛られており完全ではなく、自ら考え、納得したことについてはきちんと受け入れるようになって自立したといえる。

学生のうちは親や先生の存在や決まり事など反抗の対象となるようなものが溢れていて、それとは違うというだけで何か強い個性などを感じることができる。だがこの枠が外れて、対照できるものがなくなると、自分が抱いていた個性や独創性が捉えにくくなり、はっきりとした言葉にもならないので、自分が空っぽのように思えてくる。 

このアルバムの歌詞カードで続く写真は、このようなことを表しているように感じた。昼も夜も逆さまになって思い思いに過ごしているけれども、本当は何もない夜の林の光景に近い状態だった、ということである。

 

稲佐山の夜景と福島の星空

このように逆さまの景色について思い巡らしていると、私の過去の体験が思い出されてきた。数年前、長崎に旅行に行ったとき、有名な夜景が見えるスポットである稲佐山の展望台まで足を運んだ。そのときは、空の星はそこまで多く見えず、月が明るく輝いているくらいであったが、下の街明かりは至るところで光っており、足下に星空が広がる感覚であった。逆さまになれば星空に見えるな、なんて首を傾けたりしていた。

そんな中対照的に思い出されたのは、大学1年の夏休みにサークルで福島に旅行に行き、夜中に数人で宿(貸切りのペンションだった記憶がある)の周りを歩き回ったときのことだ。満点の星空で、流れ星が何個もあり、歓声が上がっていた。私は眼鏡を置いて出てきてしまったので、流れ星自体はあまり見えず残念がったのだが、それでも星が落ちるほどの光景はしっかりと感じることができた。

この10代の頃の夜空と較べれば、長崎の夜景は、視力も当時より落ちて空に見える星はぐっと減ってしまい、星の光は下に落ちてしまったようにも思える。しかし考えようによっては、月の輝きは残り、ひときわ目立つ状態になり、星の光も人の手が届く場所まで来た、と言うこともできる。見える光は少なくなっても、目指すもの、手が届くものが何か分別が付くようになってきたということで、このように思うと、10代とは逆さまになった今の自身の在り方について少し見えてくるような気がしてくる。

 

「後の祭り」の意味を変える?

上で花火大会後の名残惜しさについて扱ったが、ハロウィンしかり、クリスマスしかり、翌日の切り替わりようは寂しさを通り超えて驚くほどである。その裏では、売れ残りの食材やグッズが捨てられていると思うと何とかならないかな、とも思う。そこでイベントの2日後くらいに、しみじみと近しい人たちの自宅で振り返る日というのができたら、寂しさが和らぐという意味でも、ビジネス的にもいいのではないか、と思った。

例えば、11月2日はアフターハロウィン、12月27日はアフタークリスマスなんて名前をつけて、ハロウィンやクリスマスの思い出の写真や動画、安く売られる食材などを近しい人で持ち寄って、まったり振り返る簡単なホームパーティをする。2月16日はアフターバレンタインデーなんてすれば、上に加えてバレンタインデーで心残りなことがあった人が思いを果たす機会にもなるようにもなると思う。

「後の祭り」とは時機に遅れて取り返しのつかないことを意味するが、祭りなどの出来事をその数日後、家族や身内などで振り返り楽しむこと、といった意味に変わったりしたら面白いな、なんて思った。

 

はてなオリジナルボールペン&ミニノートが欲しい。

タイトルの通りの純粋な動機から、「はてなブログ5周年ありがとうキャンペーン」のお題第1弾「はてなブロガーに5つの質問」について書いてみる。

 

1. はてなブログを始めたきっかけは何ですか?

oikaze.hatenablog.jp

はてなブログ」を始めた経緯は上の記事で簡単に書いたところである。「gooブログ」で書いていた記事の過去ログを「はてなダイアリー」に置いていたが、放置状態になっていたため、「はてなブログ」に移行してみた。すると、とても使いやすかったのでメインにすることにした。具体的にどこが使いやすいかというと、編集画面の右側にツールバーが表示され、カスタムURL、アイキャッチ画像が設定できる上、amazonなどの引用がスマートにできる。また、エディター上の文字が大きい。比較的長く書くので、見出しと目次も簡単に設定できるのもいい。

そもそもなぜブログをやっているかというと、私は色々ぼんやりと考えることが好きで、10代のころどもり癖もあって口下手になってしまったこともあり、文章でまとめる、表現することが心の拠り所となった。インターネットをめぐる環境もどちらかというと世知辛い方向に変わってきているが、学生時代から積み残しているテーマをまとめてみたり、日々の生活から感じたことを書き留めたり、これからもできる限りしていきたい。

 

2.ブログ名の由来を教えて!

遡ること中学3年生、習字の授業で好きな四字熟語を半紙に書くという課題があった。そこでなんとなく「順風満帆」という言葉を選び、書いた。いかにも中二病っぽいが、期末試験の準備のまとめノートに「順風」を英語にして「Tailwind Project」名付けて準備したら、成績がものすごく上がって、それ以来「順風」に因んだ言葉をよく用いるようになった。インターネットが盛んになるとハンドルネームにも使うようになった。ブログを作る際もこれに因み、「順風ESSAYS」という名前にした。gooブログから移行するに際して、続編という意味の言葉を後ろにつけて、「順風Essays Sequel」という名前にした。

 

3.自分のブログで一番オススメの記事 

oikaze.hatenablog.jp

最近の記事は置いておいて、過去ログの中から。これは自分語りの形式だが設定から何まで創作話である。他にも簡単な小説等を作ってきたが、これは特に「書きたい!」という思いが強く沸きあがってできたものだ。

書いたのは10年前になる。当時の学生時代から、紙のノートを持ち歩き、まずはそれに思い浮かんだことを書き留めている。コクヨのスリムB5ノート、無印良品のモバイルノートなどを渡り歩き、現在はコクヨの黒キャンパス方眼ノートを使ってまとめていたのだが、先月、旅行先で大雨に降られてびしょびしょになり、ドライヤーで乾かしたものの無残な姿になってしまった。勿体ないのでそのままの状態で使い続けているが、快適ではない。はてなオリジナルミニノートとボールペンがあれば少し変わるかな、なんて思っている。 

 

4.はてなブログを書いていて良かったこと・気づいたこと

1で書き忘れてしまったが、ブログ読者機能の表示も見やすい。そして「はてなブログ」で書かれている皆様の記事を読むことも日々の楽しみとなっている。どことなく、また当たり前なのだけど、みんな日々生活している、考えている、ということを見て、自分にとって心強さを与えているように感じている。 こういう近すぎないつながりが好きだ。

 

5.はてなブログに一言

今のところ更新頻度は月1~2回程度のマイペースで、アフィリエイトはこれまでも、これからもするつもりはないし、アクセスたくさん集めようとも考えていないので、貢献は少ないかもしれないけれど、続けていくのでよろしくお願いいたします。

改善要望としては、自分が使いこなせていないだけかもしれないが、Androidアプリからの投稿は機能の面でまだなかなか難しいように感じている。具体的には新記事作成の際にカスタムURLの設定ができると嬉しい。

 

「真田丸」信繁(幸村)ときりが夫婦になる展開を考える

真田丸」 あれっ、きりは信繁(幸村)の側室にならないの?

www.nhk.or.jp

私はもともとNHK大河ドラマ、朝ドラを含め、テレビドラマを観る習慣はなかったのだが、今年の大河ドラマ真田丸」は毎週観ている。ちょうど放送開始の1月に旅行で上田城などを訪れ、ゆかりの地を回ったこともあり、興味があって観始め、何度か挫折しかけたがテレビの連ドラ録画機能のおかげで続いている。史実がある関係で展開が読める大河ドラマだが、真田丸は意外な展開も多い。その中で、私が最も意外と思ったのは、どうやら「きり」が信繁(幸村)の側室にはならなそうだ、ということだ。

毎週観る中で、長澤まさみ演じるきりに注目していた。きりは主人公・信繁の幼馴染として、序盤から終盤まで常に行動を共にしている女性だ。序盤では現代言葉で違和感がある、余計な行動をするなど何かと話題であったが、終盤に差し掛かった現在ではすっかり定着し、ポジティブな話題が占めるようになった。高梨内記の娘で、史実では、信繁の側室になり、子をもうけ、その子は大坂の陣後も仙台藩で生きていくとされる。序盤から様々なところでゆくゆくは側室になると書かれていたので、すっかりそういう展開が来るのだと思って毎回観ていた。

ところが、九度山生活が終わった時点までに、きりが信繁の側室にはなっていない。それどころか、信繁や正室の「はる」に諦めととれる話をしている。もはやきりが信繁の側室になる展開はなくなったと考えざるを得ない。インターネット上でみる限りだが、制作側としても最初は側室になる展開を視野に入れていたがやめた、ということらしい。この展開がなくなった理由を勝手に考えてみると、次の2つが浮かんできた。

1:信繁がきりを突き放しすぎた

きりは、上田で梅から信繁への好意を指摘されてこれを自覚するに至り、その後は上杉や秀吉の場所にも押しかけるように着いていくなど、積極的な行動をとる。2人の関係が進展しなかったのは、信繁に気持ちがなかったことによる。そして、きりが秀次の側室になる話が来たとき、信繁がそれを後押しする発言をしてしまう。ここまでなると、側室になる展開まで繋げるには、信繁の「心境の変化」を描かなければならなくなる。しかしそのようなシーンを作るのは難しく、機を失ってしまったのではないか。

振り返れば、秀次の側室の話では、きりが信繁に、止めてほしいとの気持ちで、何もしないと行っちゃいますよ、みたいな言い方をしていた。これは相手を試すようなやり方で、突き放されることになりやすい。仮に側室になる展開にしやすくするとすれば、きりの好意は確定しているので、例えば、「迷っているのか、なぜだ。よき話ではないか」「源二郎様のこと、お慕いしているからに他なりません」と正面から話して、信繁が返答に困る、それをみてきりが「もう、知りません」と離れる、といったやりとりはどうだろうか。または、秀次の切腹の後、きりが側室にならずによかったと話をしたとき、信繁が「あのときは、あんなこと言って、すまなかったな。」と一言入れても繋げやすくなったように思う。

2:正室の「はる」が面倒な性格だった

もうひとつ、信繁の正室となった「はる」は、石田三成から苦労するぞと言われ、思い込みの激しいエピソードを紹介され、九度山生活でも不安定になると障子に指をぶすっと刺し、きりに「面倒」と言われていた。これらのエピソードは楽しみであったが、はるとひと悶着起こさずにきりが側室になる展開を作るのは難しくなったように思う。

 

せっかくなので、側室になる展開を考えてみる

自分が考えるきり側室化の障害は上記2点であるが、そのままでも側室になる展開を考えてみることにする。

1:第二次上田合戦で信繁の「心境の変化」がある

信繁は、最初の妻である「梅」の第一次上田合戦での死を、結局乗り越えていないままである。乗り越える機会としては第二次上田合戦が絶好の機会である。これと合わせれば、きりに対する「心境の変化」のエピソードを入れやすい。上杉討伐に行く際、昌幸は女性たちに上田に来るように言っていたが、結局第二次上田合戦の時、きりは大坂にいたままだったようだ。だが、信幸の妻・稲たちは沼田に移動しており、この動きと合わせて上田に行くこともできたように思う。

そして、第二次上田合戦の中、第一次上田合戦での梅の行動を彷彿とさせるように、きりが戦況に応じて危ない行動をとる、或いは、きりやはるが上田に向かっている途中ときいていたが足取りがつかめなくなった(よもや、先を行った徳川軍と鉢合わせなどした?)などと信繁の不安を募らせるような事態が起こる。そんな中、無事な姿できりが現れ、信繁が思わず死んでなくてよかったと肩を抱きかかえる。きりは私(達)は死にませんよ、ついていきますよ、などと話す。このような展開で、好意までいかなくても、失いたくないという思いを抱くことを表すことができるように思った。道中できりとはるが助け合う展開が挟まれば、はるの性格の問題もクリアできそうだ。その後の九度山の障子のシーンはきりが側室でも目のかけ方が違いません?ということで成り立つように思う。

2:高梨内記九度山に付いていく際に昌幸と話す

きりの父、高梨内記は昌幸への忠義が深く、九度山に同行し、大坂の陣の最後まで付き従う。昌幸の死後は大助の祖父がわりのような役割も果たしている。ここまで後で深くかかわるのであれば、九度山に行く際に昌幸と直接話すシーンがあってもよかったのではないか。「お前も一緒に来るか。」「もちろんでございます。」「そういえば、おぬし娘がおったな、どうするつもりじゃ」「それは…」「なんじゃ、言うてみよ」「実は、その、ご縁ができたらよいと話しておりましたが、どうにもならなくなってしまいました」などとやりとりをして、昌幸から、きりを信繁の側室に迎え、親子ともよろしく頼むぞ、という話を出す、という展開はどうだろうか。

昌幸は九度山で衰えたように描かれる一方で、戦術を記して残すなど史実に従った行動をとっている。ここはひとつ、徳川家康に「生き地獄」などと言われたのに反発をし、何をその、わしでなくても信繁やその子などでやり返してやろうぞ、そのときに備えどんどん子供も作っておけ、と勢いを残し、一貫したキャラクターであったほうがすっきりしたように思う。真田昌幸文書も、死ぬ間際に突然話すのではなくて、信繁と一緒に策を練りながら、もし見つかったら大変ということで他の人にはわからない形でメモを残す、信繁だけがわかるといったように。そして、死の床では、犬伏の件や第二次上田合戦の砥石城の件などを引き合いに出して、信繁に、わしの策はお前や信幸と一緒に考えた策じゃ、自信を持て、などと最後に話す。そうすると、大坂入城時の信繁の態度もハッタリではなくなるようにみえる。

 

話題となったスピード展開

このように、きりが側室になる展開を勝手に考えてみた。ポイントなる第二次上田合戦と関ケ原の戦いはほとんど描かれずに終わってしまい、大きく話題になった。関ケ原の戦いのスピード決着は役者さんも驚いたとされる。真田家の視点から、という説明はつくが、石田三成大谷吉継についてあれだけ細かく描写したバランスからすると、その終わりについてもきちんと時間をかけて描かれるのでは、という期待が生じてもおかしくはない。大坂編は壁の落書きの件、瓜売りの練習、秀次の舞の稽古などは、時間をたっぷりかけているような印象であったことと較べても速く感じる。第二次上田合戦は、秀忠が時間があれば真田を討てたなどと後で息まいていたが、言われたとおり関ケ原の戦いに間に合っていたならそうも言えたが、間に合わずどちらも成し遂げられず大失態となった史実からすると、なんとも的外れな発言であり、違和感もある。合戦シーンなど制作費などの事情で話の筋も曲がったのであれば、残念に思う。ともあれ、ここまで来たので最終回まで楽しんで視聴していきたい。