やっぱり、はてなオリジナルグッズが欲しい。

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第2弾「5年後の自分へ」
http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog-5th-anniversary

キャンペーンの最終日で、時間もギリギリになってしまったが、再び、グッズが欲しいという単純かつ切実な動機から、「5年後の自分へ」とのお題に沿って記事を書こうと思う。

とにかく、生きていますように!

先日、子供の頃から20年くらい使ってきたデスクスタンドがお亡くなりになってしまった。気が付いたら点かなくなって、中の蛍光灯を新しく買ってきて交換しても反応がなく、タッチインバーター式なので自力での修理は不可能、お手上げになってしまった。他にも、一人暮らしを始めたときに買ったヘアドライヤーのプラグが発熱するようになり、これはやばいと買い替えたり、青春時代(?)の苦楽を共にした道具たちの寿命が訪れている。

私自身も、体調の変わり目に差し掛かってきたのか、これまでタフなのが売りとの自己認識で、風邪をひくこともなくやってきたが、昨年複数回体調を崩すことがあり、健康診断でも問題を指摘され、これまでのように負荷はかけられなくなっている。親も高齢になり通院や入院が増えてきて、自分の人生の前半が緩やかに終わりに近づいているのを感じている。

しかしながら、悪いことばかりあるわけではない。年齢を重ねて体力的には低下するにしても、自律神経などは安定してくるそうで、確かに学生時代に悩まされた寝つきの悪さなどはすっかり解消されてしまった。過剰気味であった自意識にも変化があり、意識の統制下に身体があるというより、身体を生かすための機能として意識が備わっているといった感覚になる。異性のパートナーがいる生活が普通になり、孤独感のようなものもなくなってきた。身体の変化に適応し、健康問題を解決した上で、家族関係のライフイベントがひと段落すれば、安定して物事に取り組むことができるようになるだろう。

先の電気スタンドも、結局2000円もしないLEDスタンドに買い替えたのだが、当然ながら、前より明るくなったし、ライトが軽くなった分土台やアームも小さくなり、デスク上のスペースもとられず、非常によくなった。ただ、LED電球は交換が予定されておらず、長寿命とはいえど前のように20年も使うことはできないだろう。進化はすれど、使い切り。世の中も、このように入れ替わりが激しくなってきていると感じる。学びを続け、感覚の鋭敏さなどは失わずにいたい。

ちなみに、新しく買ったのはこれ。(LEDデスクランプ ODS-LS16-W

 

そして5年後も、ここでブログを書いていますように!

私はインターネットで文章を書くようになってから10年以上経っている。5年後も生きていて、また外部的な事情に阻まれるなどして続けられなくなるという事態にならない限り、ブログは続けたい。はてなブログの環境はとても気に入っているので、5年後もサービスが存続していてほしい。

文章を書く目標としては、(1)下の記事でも書いたように、自分なりの価値観を言葉で説明できるようになりたいということ、(2)長めの小説を完成させること、である。5年後ではまだ途中経過にはなりそうだが、もし10周年企画があるとしたら、この記事を振り返ってみたい。 

oikaze.hatenablog.jp

 

コンデジ撮影を練習する

さいたまクリテリウム観戦

 10月29日、さいたまクリテリウムという自転車ロードレースの大会があった。さいたま新都心駅周辺の周回コースを、ツール・ド・フランスの各賞受賞選手をはじめ、第一線の選手達が駆け抜ける。映像でしか見ていなかった、フルーム、サガン、キッテル、マイカ、バルデなどの選手たちを間近で見ることができて、いい時間を過ごすことができた。集団がペースを上げるとあっという間に逃げの選手に追いつく様子が特に印象的だった。

さいたま新都心に来たのは初めてで、建物等複雑な上、歩行者でも階段や道路など通行止めになっている場所が多く、 配布された地図を見ても目的の場所に行くのは一苦労で、グッズ売場との案内の先に行くと、どこかのアーティストのグッズだったとの失敗もあった。なんとかメインレースの時間までには慣れてきて、観戦場所も決めた。アンダーパスのある道路に入る前の丁字路は、1周する中で2回選手たちが目の前を通る。また、さいたまアリーナ入口付近のパブリックビューイングの映像を遠目に観ることができ(実況の音声は会場全体に流れている)、全体の展開も把握しやすい。上の写真はその場所で撮影したものだ。

さいたまクリテリウム2016 - サイバナ

その他、レース展開や楽しみ方は、上のリンクを参照してほしい。日程が合えば来年もまた観戦に行ってみたい。

 

オート任せからの卒業を試みる

oikaze.hatenablog.jp

上の写真は夏に購入したソニーコンデジ「WX-500」で撮影したものだ。これまではオート機能でパシャパシャ撮影するつもりであったが、せっかく色々な機能もあるので活用してみたいと思うようになった。サイクルロードレースなど動きが速いものを撮影する場合は、シャッタースピードを短くすると被写体がぶれない、ということは知っていたので、シャッタースピード優先モードにしてみたが、どの数値に設定すればいいのかは分からなかったので、満足には撮れなかった。

写真が絶対にうまくなる 構図力養成講座

(簡易版カラーチャート付) さぁ、写真をはじめよう 写真の教科書

そこで上の書籍などをみて、色々試してみることにした。カメラをいいものにするというのはせず、このコンデジでできるところまで行きたい。

 

日立中央研究所・庭園公開に行く

【東京】公開は年2回だけ。武蔵野に残る知られざる「秘密の森」 | TABIZINE

 11月13日、国分寺にある日立中央研究所の庭園の一般公開があった。多摩川の支流である野川の源流が敷地内にある。春と秋の年2日だけの貴重な機会のひとつということで、足を運んだ。これを機会にと上のコンデジで色々と撮影してみたが、そのうちの何枚かを載せてみたい。

鬱蒼とした緑に囲まれる(対角線で配置)

紅葉はそこまで進んでおらず、特に池の東側は水場までの間に緑が鬱蒼と生い茂っていた。北側の野川の源流の様子は阻まれてあまり見えない。写真に収めようとすると様々な対象が出てきて配置が難しい。フレームか対角線で収めるのがいいかなと思った。上の写真は、池の水を斜めの対角線になるようにし、ズームも活用して間にあった他の植物は除いて撮ってみた。他にもちょうど斜めに伸びている木や、入口の近くに架かる橋の下を斜めに野川の源流が通っているところなどで対角線を意識して写真を撮ってみた。

 

湧き水の流れ(シャッタースピードをいじる)

シャッタースピードを色々といじってみた。遅めにすることで、水の流れに残像ができ、「流れている」感が出てきた。配置は難しく、縦にしてもう少し引いて、S字のように小川が収まれば理想的だっただろうか。

崖の下の湧水地点では行列ができていた。行列で待つ間、足下の花を湧水からできた水の流れを背景に撮影してみた。底の石が見えているが、もう少しシャッタースピードが遅かったら水が流れているとはっきりとわかっただろうか。

 

白鳥がいた!(ズームを活用する)

池のほとりに白鳥がいた。最初はうずくまって眠っていたが、ほどなく起き上がり、最後は池を悠々と泳いでいた。各場面を撮ったが、上の写真は白鳥が起き上がった時点の状態を対岸から撮影したものだ。「WX-500」の高倍率ズーム機能が活躍した。ただ、高倍率ズームは手ブレのせいかカメラの画面ではわからない程度で被写体がぼやけたりすることが多いので過信は禁物のように感じている。

 

写真ブログは「はてなブログ」+「Googleフォト」が快適

今回写真を載せるにあたり、どういうやり方がいいかな、と調べてみた。まずは本家のgooブログの活用ができるかなと思って試してみたが、写真そのままでは1枚当たりの容量オーバーでアップロードできず、自動リサイズは320×240ピクセルと小さすぎて、自分のPCでデータ量を勘案してリサイズしてからアップロードしなくてはいけなかった。これでは面倒だということで断念してしまった。

はてなブログでは1024ピクセルで自動リサイズしてもらえて(はてなフォトライフに直接だともう少し小さく自動リサイズされるらしい。)この点はよいが、編集画面の右のツールバーで写真を投稿すると自動的に記事にも貼り付けられてしまい、「とりあえずいくつかアップロードして、絞る」という作業はやりにくいように感じた。

はてなブログの画像はGoogleフォトを利用すべし - Apple In

インスタグラムは写真が正方形になってしまうし、他に新しくアカウントを作るのも大変だ、はてなブログしかないかな、と思って検索をしてみると「googleフォト」を活用する方法があると知った。適度に自動リサイズがされ、容量は無制限で、はてなブログの編集画面のツールバーにもあり、一番快適に使えると感じた。しばらくはこのやり方を続けてみたい。

 

フジファブリック「TEENAGER」を聴く

フジファブリック「TEENAGER」を聴く

TEENAGER

TEENAGER

 

ここ数年、1枚のアルバムをしっかりと聴く機会がなくなってきた。インターネットで購入した場合は1曲単位がほとんどで、アルバムでもパソコンでの流し聴き、ウォークマンで短時間聴く感じになる。レンタルでも、複数枚まとめ借りで安くなる料金設定だったりするので、1枚のアルバムに集中する余裕がない。そんな中、宇多田ヒカルの新アルバムが昔と同様の売り方でヒットしており、1枚のアルバムを味わうことが見直されているように感じた。そこで、少し割高になるがレンタルで1枚ずつアルバムを借りて、1週間何度も聴くことを試みることにした。宇多田ヒカルの新アルバムから始め、スピッツの新アルバムを挟んで、かねてから聴きたかったフジファブリックの2008年のメジャーでのサードアルバム「TEENAGER」を手にした。

私がフジファブリックを知ったのは、もともとFPMが好きだったところ(UNIQLOCK + FPM - 順風ESSAYS)、昨年借りたアルバムの中に「VERSUS」というJ-POP等をリミックスしたものがあり、その中でフジファブリックの代表曲「若者のすべて」が使われていたことによる。多数の曲がある中で特に惹かれる一曲だった。恥ずかしながら、それまでフジファブリックの存在も知らなかった。このアルバムが出た当時はインターネット上での同人音楽の広がりに注目していて、J-POP等からは離れてしまっていた。同じようなことは過去にもあって、洋楽ばかり聴くような時期があり、その間にバンプオブチキンの盛り上がりを逃してしまい、同世代なのに実感が合わないことがあった。

今回手にした「TEENAGER」は上記「若者のすべて」が収録され、タイトルからもわかるように、10代の若者の心理などをコンセプトにしてまとめられている1枚だ。Amazonのレビューをみても一番に挙げられているので、最初に聴くアルバムとしてもいいだろう。

 

代表曲「若者のすべて

公式のYouTube動画


フジファブリック (Fujifabric) - 若者のすべて(Wakamono No Subete)

 

花火大会は終わってた?

フジファブリック/歌詞:若者のすべて/うたまっぷ歌詞無料検索

この曲の歌詞については、検索すると様々な考察や解釈が書かれているが、そのほとんどは花火大会の当日の話とされている。夕方5時から始まり、この夏の最後の花火だなあ、昔の思い出のある人と会えたらいいけど、会えないよなと思って行ったところ、会ってしまった、という展開だ。そして歌詞の最後の「最後の最後の花火が終わったら」とのフレーズは、花火大会の終わりに思いを馳せる様子ということなり、結局花火大会の最中で終わることになる。普通に歌詞をたどって行けば、このような理解になるだろう。

他方、ウィキペディアによると、この曲は「花火大会が『終わった後』の切なさや虚しさ」を歌ったとされていて、あれれ、と思った。上の理解だと花火大会が終わる前までの出来事になる。ウィキペディアが不正確なのかもしれないが、考えを巡らすと、終わった後の話として捉えることもできるように思った。

確かに、花火大会当日なら、街がざわついているのは当然で、むしろ一年のうち一番騒がしいと言ってもいいくらいだ。いまだに街が落ち着かない「気がしている」なんてものじゃない、とも言い得る。また、花火大会での最中は人も多いし、見入ってしまうので、告白など個人的な思い出イベントが起こるのは、帰り道や別れ際だったりする。歌詞の人物は「ないかな ないよな」などやや優柔不断な性格が見て取れる。こんなことを考えながら、ざっと話を作ってみた。

真夏のピークが去ったとテレビでも言われ、夏の終わりの街一番のイベントである花火大会も終わってしまったが、僕にはまだ落ち着かない気がする。花火大会の後は寂しい感じがするものだが、僕にはとりわけ寂しさを募らせる思い出がある。

 

何年も前のあの日、花火大会に行った帰り道、2人だけになっても、僕は言い出すことができなかった。「ねえ、何か話すこと、ないの」と訊かれたが、言葉が出てこなかった。「残念。もう帰るね」と言い捨てて去っていく彼女の後ろ姿にすがるように「また次の花火のときに、いや、明日、この場所で」と呼びかけたが、「もう最後の花火は終わったのよ」との言葉だけで振り向いてはくれなかった。自分が情けなくて、その後数日引きこもってしまった。来てくれる訳ないと、翌日もその場所には行かなかった。気まずくなって、その後お互い避けたまま、卒業していった。毎年、花火大会の後は、ああ、終わってしまったと後悔が沸き上がる。

 

今年も夕方の学校のチャイムが聞こえてきて、当時のことが思い出されてきた。彼女との関係が続かなかったのは運命だったんだと言い聞かして、なんとか納得させる。今は社会人にもなって当時よりはマシになった。 あの場所に行こうかな、彼女はいないんだけどさ、行って、あの時、又はその翌日言えたらどうなっていたか、思い浮かべるでもしないと割り切れないままだ。擦り傷を抱えたままの心で、暗くなり、街灯が点いていく道を急ぐ。 

 

彼女がいるわけはないと思ったのだけど、会ってしまった。予想外のこともあり、相変わらず何を話せばいいのか迷ってしまう。彼女は花火セットの袋を提げていて、こんなことを言い出した。「あのさあ、花火は自分でやることだってできるのよ。」最後に空高く飛ぶロケット花火を上げて、これが今年最後の最後の花火になる。この後、僕らは変わっていけるだろうか。何年越しであっても、はっきり言わないといけない。

 

言葉にならない、何か。

少し無理のある話になってしまったかもしれないが、いつの話なのか複数考える余地があるように、会う相手が誰なのか、思い出されるのが何であるのかなど、明確にされていない部分が多い。若者の「すべて」という大きなタイトルも相俟って、花火も若者が抱く漠然とした夢や野望の象徴のように捉えることができるように思う。アルバム名と同じ「TEENAGER」でも、いつまでも追いかけていたい、エネルギーは有り余っているし、物足りない感じもするが、肝心の答えは難解でわからない、といったことが語られている。わかった気になって語るよりも、わからないということを素直に語り、表現し、享有することで心に響く感じがする。 

フジファブリック/歌詞:TEENAGER/うたまっぷ歌詞無料検索

私も大学時代は昼食時から午後3時くらいまで、時には夕方まで食堂に居座って仲間と色々とお喋りをしていたものだが、今になって振り返ると何をそんなにたくさん話すことがあったのかと不思議な思いがする。講義で聴いたこと、本で読んだこと、ネットで見聞きしたことなどを持ち寄って、あれこれ話していたのだろうが、具体的な内容までは思い出せない。年末などにたまに集まって話してやっと、どことなく思い出されてくる。私はノートやブログなどを書いて当時考えたことを言葉で残しておきたいという思いが強かったが、十分には残していないし、形にしないままのものも多い。その名残惜しさが、今でもブログを続けている理由のひとつでもある。

 

逆さまに写る歌詞カード

「正しさ」が消えたときの空っぽ感

CDには付いているがデータには付いていないのは、歌詞カードだ。少ない紙幅の中で、アルバムの世界観や空気感を表している。このアルバムの歌詞カードは、ジャケットが逆さまになっている女の子、中の写真は、メンバーが林の中で天地逆さまに写っている写真が昼間のもの、夜間のものと続き、最後のページは誰もいないひっそりとした夜の林が天地が正しい位置で載っている、という構成になっている。

若者は、上で述べたように、自ら何を為していくかはっきりと答えが得られることは少ない。その一方で明確な行動基準となるのは、大人たちの言葉だったり、既成のルール等に対し、それと「違うことをする」ことで、これにより自分で何かを選択した気持ちになれる。いわゆる反抗期は、とりあえず違う選択をすることで決定権を自ら得る過程といえる。このままでは反抗の対象に縛られており完全ではなく、自ら考え、納得したことについてはきちんと受け入れるようになって自立したといえる。

学生のうちは親や先生の存在や決まり事など反抗の対象となるようなものが溢れていて、それとは違うというだけで何か強い個性などを感じることができる。だがこの枠が外れて、対照できるものがなくなると、自分が抱いていた個性や独創性が捉えにくくなり、はっきりとした言葉にもならないので、自分が空っぽのように思えてくる。 

このアルバムの歌詞カードで続く写真は、このようなことを表しているように感じた。昼も夜も逆さまになって思い思いに過ごしているけれども、本当は何もない夜の林の光景に近い状態だった、ということである。

 

稲佐山の夜景と福島の星空

このように逆さまの景色について思い巡らしていると、私の過去の体験が思い出されてきた。数年前、長崎に旅行に行ったとき、有名な夜景が見えるスポットである稲佐山の展望台まで足を運んだ。そのときは、空の星はそこまで多く見えず、月が明るく輝いているくらいであったが、下の街明かりは至るところで光っており、足下に星空が広がる感覚であった。逆さまになれば星空に見えるな、なんて首を傾けたりしていた。

そんな中対照的に思い出されたのは、大学1年の夏休みにサークルで福島に旅行に行き、夜中に数人で宿(貸切りのペンションだった記憶がある)の周りを歩き回ったときのことだ。満点の星空で、流れ星が何個もあり、歓声が上がっていた。私は眼鏡を置いて出てきてしまったので、流れ星自体はあまり見えず残念がったのだが、それでも星が落ちるほどの光景はしっかりと感じることができた。

この10代の頃の夜空と較べれば、長崎の夜景は、視力も当時より落ちて空に見える星はぐっと減ってしまい、星の光は下に落ちてしまったようにも思える。しかし考えようによっては、月の輝きは残り、ひときわ目立つ状態になり、星の光も人の手が届く場所まで来た、と言うこともできる。見える光は少なくなっても、目指すもの、手が届くものが何か分別が付くようになってきたということで、このように思うと、10代とは逆さまになった今の自身の在り方について少し見えてくるような気がしてくる。

 

「後の祭り」の意味を変える?

上で花火大会後の名残惜しさについて扱ったが、ハロウィンしかり、クリスマスしかり、翌日の切り替わりようは寂しさを通り超えて驚くほどである。その裏では、売れ残りの食材やグッズが捨てられていると思うと何とかならないかな、とも思う。そこでイベントの2日後くらいに、しみじみと近しい人たちの自宅で振り返る日というのができたら、寂しさが和らぐという意味でも、ビジネス的にもいいのではないか、と思った。

例えば、11月2日はアフターハロウィン、12月27日はアフタークリスマスなんて名前をつけて、ハロウィンやクリスマスの思い出の写真や動画、安く売られる食材などを近しい人で持ち寄って、まったり振り返る簡単なホームパーティをする。2月16日はアフターバレンタインデーなんてすれば、上に加えてバレンタインデーで心残りなことがあった人が思いを果たす機会にもなるようにもなると思う。

「後の祭り」とは時機に遅れて取り返しのつかないことを意味するが、祭りなどの出来事をその数日後、家族や身内などで振り返り楽しむこと、といった意味に変わったりしたら面白いな、なんて思った。