大栗川と数多の恋の物語

※2020年9月現在、写真が表示されていませんが、Googleフォト貼付機能の不具合と思われます。公式で対応予定とアナウンスされていますので、対応まで待ちたいと思います。

 

休日のサイクリングとスナップ写真のお話。昨年夏の仙川(下記参照)に続き、2月に大栗川に行ってきた。記事を書かないうちに季節が変わってしまいそうになってきたので、ここでまとめてみる。

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大栗川とは

大栗川は、多摩川の支流の一つで、八王子市鑓水地区を源流とし、太田川乞田川(多摩センター地区を流れている川)と合流しつつ、聖蹟桜ヶ丘駅付近で多摩川に流れ込む総延長約15.5キロの一級河川である。上の写真は、多摩川との合流地点にあるゼロメートル標識である。左側が多摩川、右側が大栗川だ。ここは子供が交通ルールを学ぶための公園の敷地内で、バードウォッチング施設もある。

今回はこの場所をスタート地点とし、上流の鑓水地区まで自転車で上ってみた。大栗川沿いには、古くからの伝説があったり、近年の映画の舞台となったりした場所があり、「恋の物語」をテーマに辿ってみることとした。この日は曇りの予報であったが、幸い太陽も出て過ごしやすい気候であった。川沿いには遊歩道が整備され、走りやすい。私が行った2月にはさらに遊歩道の整備工事をしている区間があり、4月頃にはもっといい環境になるだろう。堀之内付近に自転車乗入禁止の区間があるが、並走する車道を走れば問題ない。

 

聖蹟桜ヶ丘―「耳をすませば」「一週間フレンズ。」の舞台

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聖蹟桜ヶ丘といえば、スタジオジブリのアニメ映画「耳をすませば」の舞台となったことで有名だ。最近でも、今年の2月に上映開始の「一週間フレンズ。」との映画でも舞台となっている。記憶が一週間でリセットされてしまう女子生徒と男子生徒の友達から始まる恋物語だ。今回のスタート地点からは、一週間フレンズ。」で度々登場する府中四谷橋を臨むことができる。宮崎あおい玉木宏主演の「ただ、君を愛してる」でも登場した橋だそうだ。日本の高い塔と放射状に伸びるワイヤーが特徴的な橋で、手前に京王線多摩川を渡る姿をみることができる。

スタート地点から少し走ると、多摩センター方面に流れる乞田川との分岐がある。現在調布から分岐している京王相模原線は、地形からすれば、聖蹟桜ヶ丘をターミナルとして、大栗川と乞田川沿いの低地に沿って通すこともできたように思う。帰宅後調べてみると、確かにそのような整備案もあったようである。分岐から少し進むと、大栗川からも聖蹟桜ヶ丘の中心街が見える。「耳をすませば」では「杉の宮駅」という名前であった。下の写真の右奥に京王アートマンの赤い看板がある。 

さらに大栗川の上流に向けて走ると、「旭鮨」と大きく文字が書かれた建物が見え、霞が関橋に辿りつく。この橋の道のすぐ先には、下の写真のように「耳をすませば」で図書館に通じる「いろは坂」のモデルとなった場所がある。他にも写真を撮っている若い人たちに遭遇した。この坂を上って行けば、階段や金比羅神社など他のモデルとなった場所がある。車通り、人通りが多いので注意が必要だ。背後の信号で流れが途切れるのを待って撮影した。

さらに大栗川を上っていくと、下の写真のように、川沿いに「耳丘」と呼ばれる最後のプロポーズのシーンの舞台となった場所がある。山肌がきれいに整備されていて、下から見てもいい眺めである。

少年たちの恋の物語に溢れる大栗川の下流の地域であるが、丘の上の桜が丘住宅地は、近年、坂道が敬遠されて高齢化が進むニュータウンとしてよく取り上げられるようになってしまっている。街並みの綺麗さは言わずもがな、バスは通っているし、長崎のように坂道の多い街の知恵もあるように思う。他にも、暮らしというより、都心に本宅を置いた上での近場の別荘地として考えるのもよいかもしれない。聖蹟桜ヶ丘駅周辺は変わらず活気があり、これからも多くの物語の舞台となっていってほしい。

 

多摩都市モノレール・大学の街

中流域に進んでいくと、右手の山の上に帝京大学の大きな建物が見えてくる。さらに左手には高いところを多摩都市モノレールが悠々と進んでいく姿に遭遇した。多摩都市モノレールと大栗川が交差する場所には、「大塚・帝京大学駅」が存在し、川沿いでも運動部と思われる学生の集団とすれ違う。さらにもう一駅先には中央大学明星大学が存在し、この付近のアパートに住む学生たちも多いようである。

多摩都市モノレールは平成10年代に入って開業した新しい路線で、橋脚が高所である上、モノレールの構造上、車窓から真下が見えるので非常に眺めがいい。学生の集まるこの地区では、すでに多くの恋の物語が生まれているであろうが、モノレールも登場する新たな有名な話が出てくるのを期待している。

そして、恋人たちのイベントの舞台としていいと思ったのは、さらに上流に進み、京王堀之内駅近くにある太田川と大栗川の分岐点だ。下の写真の左側が太田川、右側が大栗川である。太田川は南大沢駅方面に流れていく。この先の大栗川沿いには桜の木が並び立っており、春には綺麗な花が咲くであろう。

真ん中の公園には、風向計のようなモニュメントが立っており、ここでどんなシーンが展開できるかな、なんて思い巡らすのも楽しいだろう。

 

鑓水と悲恋の話

この先、大栗川は野猿街道都道20号)沿いに上っていき、ほどなく上流の鑓水地区へと到着した。この地区は、古くから伝説があり、江戸後期~明治初期には生糸の商人が活躍したという歴史のある場所だ。八王子市の資料館も存在している。下のようにこの地区を題材とした書籍もある。「呪われた」と題されているのは、やや悲しい結末に終わった話が多いことによるものだろう。だが、燃え上がる熱情や光があってこそ、そのような話が出てくるのであり、そのドラマの舞台としてとらえる方がよいと思う。

 

嫁入谷戸の伝説

大栗川に架かる「嫁入橋」が鑓水地区の入口だ。非常に特徴的な名前であるが、由来はある伝説に因むものらしい。この先の谷戸に夜な夜な巫女が現れ、男性を魅了する。これは怪異の類と疑った村の者は、巫女が舞を踊る中、弓を射る。すると巫女は消え、翌朝、矢が体に刺さって死んだ白狐が残されていた。この伝説から、「弓射り(ゆみいり)」→「嫁入り」と転じたとのことだ。他にも、生糸の豪商に都心から嫁入りがあったことから来ているとの話も見かけたが、資料館に飾られていた古地図にも嫁入谷戸と書かれていたので、もっと古くからの名前ではないか、前者の信ぴょう性が高いように思う。 

試しに嫁入橋を越えて嫁入谷戸の奥に進んでいってみたが、谷が深く日差しが入りにくくて暗い雰囲気で、ほどなく行き止まりになった。個人的な想像であるが、白狐を稲荷様の化身と考えると、この場所が稲作に適さない理由の説明として語られた伝説なのではなかろうか。他には、怪異が出る・祟られるので近づかないように、と言い習わされるようになったとか、或いは、それを逆手にとって逢瀬の場となったとか、勝手に思いが巡ってきた。ともあれ、行き違いで残念な結末になってしまったが、稲荷様は巫女になり村人と接触を試みたのは確かである。神様が愛しようとした地、そんな伝説の場所と考えられるのではないか。

嫁入橋の近くには、永泉寺という鑓水地区の中心的なお寺がある。入ってみると、かわいらしい小僧の絵が出迎えてくれる。奥には地区の代々の墓所が山に向かって並んでいる。上の書籍によると、都心から嫁入りした女性は、村にうまくなじめないまま短命に終わってしまったとのことである。「もしも」があった場合どんな展開になっていたか、そんな物語も浮かんでは消えていく。

 

絹の道資料館~道了堂跡

絹の道資料館|八王子市公式ホームページ

鑓水地区を回るには、まず絹の道資料館を訪れるのがいい。歴史や地区の全景を把握することができる。入場無料で、休憩所もある。展示されている古地図や昔の写真は、当時の佇まいを知ることができて、後で散策する際に思いを馳せることができる。

ここから更に絹の道を上って、道了堂跡まで足を運んでみる。上の写真ように、舗装されず石の多い道であるので、自転車は置いて行った。横浜から八王子までこの道を通って生糸や織物が運ばれていったそうだ。途中、ハイキングの集団や、マウンテンバイクで駆け下りていく人にも出会った。

さらに石段を上った先にある小高い山の上には、道了堂跡があった。下の写真のように、木製の柵で覆われている。昔は往来が多く、活気のある場所だったそうだ。実はこの場所、有名な心霊スポットとされているようで、その発端として道了堂に住み込みでお勤めをしていた老女が殺人事件の被害に遭ったというのがあるらしい。しかしこの事件の犯人は捕まって決着してるし、上の書籍によれば、被害者の老女には娘さんがいて供養がされ、作者も事件後に道了堂で手を合わせるなどして普通に過ごしている様子が書かれている。 

むしろ上の書籍では宅地開発が始まったばかりで「赤茶の台地が広がっていた」と書かれていた北野台の住宅地を手前に、奥は新宿の高層ビル群、さらにアップすればスカイツリーも見える眺望の良さに着目すべきであろう(下の写真でも拡大すれば都庁とスカイツリーが見える。)。子供を育てながら、堂を切り盛りして眺めていた景色はどのようなものだったか、どのような思いであったか、四季の移り変わりはどのようなものであったか、そんな思いを巡らせてみてはどうだろうか。

鑓水地区に入ると大栗川は三つに分かれる。絹の道資料館の方向では、田畑が広がり、これまでと全く趣の違った川の姿になる。その先にはホタルのビオトープがあるらしく、看板やホタルの模型が立っていた。

 

諏訪神社

大栗川のもう一方の流れは、諏訪神社の方向に上って行く。上の写真の真ん中、道沿いの用水路のような流れが大栗川だ。ここから横に入り、やや急な階段を上って諏訪神社に向かう。

間にあるお堂は、絹の道資料館で昭和時代の祭りの様子が写真で展示されていた。舞台で何かが演じられ、敷地いっぱいに家族連れが集まって、非常な賑わいで活気のある様子であった。当然ではあるが、昭和の時代にもいくつもの恋が生まれ、家族ができ、営まれてきた。私が行った時期では神社も賽銭箱が建物内にしまわれているなど、とてもひっそりとした空気に包まれていた。健脚にいいといわれる子の権現も祭られているそうで、帰りの無事をお祈りした。

 

多摩美術大学・小泉家屋敷

三つに分かれた大栗川の最後は、多摩美術大学の側に流れていく。大学の敷地の北側に沿って流れ、その先は地下に入っていき、辿れなくなる。途中には「小泉家屋敷」という昔の養蚕農家の佇まいがわかる施設がある。

62 小泉家屋敷(鑓水2178)|八王子市公式ホームページ

この付近では、過去にもうひとつ事件があったとされる。立教大学助教授が教え子の女学生と不倫をし、清算に失敗して恩師の別荘で教え子を殺してしまった上、助教授は最終的に一家心中してしまう。事件のことはウィキペディアに載っており、当時も非常に騒がれたようだ。道了堂跡の心霊スポット解説ではこの事件とも結びつけられているものもみられるが、道了堂跡とは1キロ以上離れていて、あまり縁のある場所のようにはみえない。上の書籍でもこの事件の顛末や作者が友達と話したことなどが書かれているが、当時の人たちの熱量の大きさが感じられた。

 

なぜラブストーリーを求めるのか

世の中には未解明である、説明がつかない事象は山ほどあり、将来のことも確実な予測はできない。だが人は説明がつかない状態をそのままに受け入れることは難しい様だ。霊的なものであっても、何らかの説明がつくことでむしろ安心する。どう対処するか心積もりもできるからだろう。数年前、友達に連れられてホラー映画を観に行ったことがあったが、恐怖の原因となるものが何か示唆されるように描かれていた。このように人が恐怖の話を求める心理は自分なりの考えはあるのだが、他方でラブストーリーを求める心理というのは何から来ているのだろうか。これはまだ自分なりの説明がついていない。

大栗川は、悲恋の話が多い上流から、爽やかな青春の恋の話が溢れる場所に流れていく。その間でも、若者が集まる街でいくつもの恋が生まれては消えているだろう。私自身、今回大栗川に着目したのは、過去恋人に会いに大栗川沿いにバスに乗って足繁く通った時期があるからだ。そのときのことも交えながら、なぜラブストーリを求めるのか、自分なりの説明をつけるというテーマで、川を繋ぐ新しい恋の物語を考えてみたい。

そんなことを思いめぐらすうちに、日が暮れてきてしまった。帰り道を急ぐ。次は、石神井川に行ってみようかな、と思っている。

 

余話

たくさんの鳥と遭遇

暖かくなってきた時期だったからか、今回は飽きるほどたくさんの鳥に遭遇した。下流の合流地点ではバードウォッチングの施設があり、大きなカメラを携えて待ち構えている人も多くいた。川沿いには、特にカモの類がたくさんいた。カメラに収めることはできなかったが、シロサギ、シジュウカラハクセキレイムクドリなど様々な鳥を見かけた。

ちょっと変わり種であるが、川沿いにフラミンゴもいた(笑)。営業を終えた昔ながらのレンタルビデオショップがそのまま残っている。右側の広告は2012年の映画のようだ。 

 

食事スポットの紹介

大栗川は近くに野猿街道が並走しており、街道沿いのお店に出れば、食事をすることができる。個人的には京王堀之内駅付近が特にお店が多いように思う。がっつり腹ごしらえをするなら、「ラーメン二郎」があるので行ってみてはどうか。道の向かいにはスターバックスコーヒーがあり、郊外店ならではの綺麗なデザインのお店でよく賑わっている。長めにまったりするのにいいだろう。

今回私が食事をしたのは、大塚・帝京大学駅の直下にある地元のお寿司屋さん「寿司安」である。学生も多い街ということで、リーズナブルな価格で美味しく食べられる。お店の人も気軽に話しかけてきてくれて、雰囲気も明るい。

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注意すべきは、鑓水地区にお店がないことである。絹の道資料館では食事もできる休憩スペースもあるが、お弁当の調達先は考えなければならない。上の書籍では昭和には食堂があったようだが、残っていない。最近までセブンイレブンもあったようだが、閉店してしまっている。 

 

路線バスでの旅もできる?

路線バス|京王バス

最近テレビなどで盛んに企画される「路線バスの旅」であるが、大栗川探訪は自転車だけでなく路線バスでも可能だと思う。個人的に考えるルートとしては、今回とは逆に上流から下っていくルートだ。鑓水地区は午前中に巡ってしまって、南大沢駅周辺や堀之内などで昼食をとるのが効率的だろう。

橋本駅→南63→絹の道入口バス停→絹の道資料館、道了堂跡、諏訪神社、小泉家屋敷、永泉寺を徒歩でめぐる→永泉寺バス停→南63→南大沢駅→アウトレットモールや首都大等(昼食の場所多い)→桜83→(ラーメン二郎太田川との分岐を訪れるならなら由木堀之内バス停下車)→(モノレールとの交差・寿司安を訪れるなら堰場バス停下車)→聖蹟桜ヶ丘駅→桜91→桜が丘地区の「耳をすませば」の舞台を巡る→聖蹟桜ヶ丘駅に戻る(夕食の場所多い)

 

 

就活で自殺する人/「雨上がりの虹」について

 

 

今年の就活が始まる

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就職活動シーズンが幕を開けた。今年は人手不足が叫ばれる中、学生たちにとっては売り手市場と言われている。その中でも、準備不足の人、気後れしてしまう人はいるであろう。成功してしまえばよいが、売り手市場と言われる中では、周りは次々と行き先を決めていき、失敗するのは自分に問題があるのではないかとかえってプレッシャーが強くなるだろう。また、不況時など就活戦線が厳しい時期に当たり、不本意な選択となった方にとっては、その時の情勢次第で難易度が劇的に変化し、多くが自分自身の問題に帰着させられる状況を歯がゆく思うことがあるかもしれない。

私の考える心構えとしては、学校の試験のように比較的明確な基準で努力が報われる世界ではなく、感情や偶然も入り交じるビジネスの世界の入口であること意識すること、日本の企業社会のイニシエーション(通過儀礼)との側面とうまく付き合うことである。知り合いの伝手がある、インターンシップ等で売り込んでおくといったことは邪道なものではないし、過程にやや不合理に思う部分があるにしても一時期の経験と思って誠実に対応していく

 

降りて、死んだつもりで、生きてみる

上でちょっと偉そうなことを言ったが、実は私は新卒一括の就職活動を経験していない。大学院に進学した後、卒業(修了)が迫る時期には、具体的ではないものの、卒業式(修了式)の日に自殺するということをよく考えていた。実際は卒業式(修了式)がとても楽しく晴れやかな気分になるものであったので、通り越してしまった。

当時を振り返ってみると、学生としてはそれなりに適応し成績もとっていたが、ビジネスの世界で競争力を持つ準備できておらず、その自信もなく、競争から「降りたら死ぬ」との意識の下、降りるのではないかとの不安があったように思う。また、ナイーブな頃で、上に書いたような割り切りがなく、自分を偽って人格が潰れてしまうとの不安もあったように思う。

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昨今の「働き方改革」の高まりは、電通での不幸な事件が背景にある。その事件に際して書かれた上の記事には、共感するところがあった。就活をクリアしたとしても、「降りたら死ぬ」ゲームは続いている。このゲームは消耗するし(バートランド・ラッセル「幸福の獲得」第3章では「踏み車を踏み続ける」と形容されている。)、降りずにいられ続ける人も少数である。このプレッシャーを感じるようになった時点で限界が近づいてきている。降りることの不安は、降りた後の人生をイメージできない、イメージしても悲観しかできないことで高まる。この緩和には、少し逆説的かもしれないが、降りた後の人生をもっと具体的・現実的にイメージしてみることも有用と考えている。

私の場合、卒業式を楽しさでいつの間にか通り越してしまい、できた時間の余裕を使ってボランティアをやってみた際に、自分にできることも多いなと自信が出てきた。また、地方に数か月いた際に、自分が東京で囚われていた人生イメージと根本から違うステップをイメージして進んでいる人を多く目の当たりにし、相対化された。近くの人に能力や成果が勝たなくても、自分の力の範囲で十分に貢献し喜んでもらうことができる。降りた際、少し距離のある知人から幾分悪意のある評価や噂話がされるかもしれない。言いそうな人を具体的にイメージしてみると、別にお前なんかのために生きているわけではない、となる。このような思いを抱くと、目の前の目標や仕事に取り組むことに集中できるようになり、何とか自分なりに充実した仕事ができている。

 

降りる恐怖で押しつぶされそうなときは、降りてもとりあえず半年くらいは頑張って生きてみよう、せっかくだから降りたときにしかできないこともしてみよう、といったことを考えてみるのはどうだろうか。もちろん、今の場所で活躍できるにこしたことはない。必要もないのにあえて降りることはない。 

 

「雨上がりの虹」について

さて、冒頭で取り上げたラフスケッチは、「雨上がりの虹」というアニメーション企画の冒頭のシーンだ。もう何がきっかけだったか憶えていないが、少なくとも5年以上前からTwitterで相互フォローしてきた方が一人で会社を立ち上げて制作しているようで、承諾を得て引用させてもらった。話の主人公は、就活はうまくいっていないけど、母親にはうまくいっていると電話で話し、自室で首を吊る。そこに羽の生えた不思議な少年がやってくる。この先どうなるのだろうか。興味を抱いた方は、以下の公式サイトと暫定版の紹介動画をご覧いただけたらと思う。

雨上がりの虹(公式サイト)

アニメ『雨上がりの虹』(暫定版)(今後完成版が出来次第消します)

 

どんな方が特に楽しめる?

どんな作品もターゲットというか、特に楽しめる層というものがあるだろう。「雨上がりの虹」について、個人的にこんな方は特に楽しめるのではないかと思ったのをいくつか挙げてみる。

武富智浅野いにお作品が好き

武富智作品は上に挙げた短編集(第3集まで刊行している)のように、絵のタッチや空気感が近いように思う。浅野いにお作品は絵のタッチは異なるが、宮崎あおい主演で映画化された「ソラニン」のように、人生に悩みがちな若者の悩みについて、特に解決が示されるわけではないけど言葉が連ねられて一定の共感を呼ぶという印象を持っている。これらの作品が好きな人は、「雨上がりの虹」のテーマや世界観に馴染みやすく、楽しめるのではないか。

 

進路選択で悩んでいる、悩んだ経験がある 

私が連想して上で体験を書いたように、目下就活で不安を抱きながら頑張っている方、思い詰めている方、来年以降の就活で不安を抱いている方、過去苦労した経験があり人生の中で大きな位置づけとなっている方などは、今後の展開が気になるのではないか。自分の経験と突き合わせてみて、より深めることができないだろうか。

 

技術に興味ある

制作者のTwitterによると、このアニメーションは独自技術を使っているとのことであり、技術に興味のある方はその点に注意を向けてみるといいかもしれない。一人でもアニメーションを制作できるということであれば、 初音ミクなどのボーカロイドで楽曲制作の裾野が広がったように、アイデアを形にする手段が増えるかもしれない。絵自体はある程度描けることが前提のようだが、ゲームのようにキャラクターの生成などと組み合わせてスマートフォン上である程度動きのある芝居を作ることができるようになれば、気軽にアニメーションを投稿ができるようになり、SNS世界が変わるかもしれないと思った。

 

クラウドファウンディング募集予定とのこと! 

制作者のTwitterによると、「雨上がりの虹」制作に当たってはクラウドファウンディングで制作資金を募るとのことである。この点も新しい試みである。詳細は公式サイト等をみてもらいたい。

雨上がりの虹(公式サイト)

 

 

「ポリアモリー」ほか、最近の言葉

遅くなってしまったが、前回の記事で予告したとおり、新聞を通して興味を持った言葉、「ポリアモリー」「セルフネグレクト」「ポスト真実Post-truth)」について取り上げてみたい。今年に入っても改めて言及されることが多く、目新しさはなくなってきてしまったかもしれない。

「ポリアモリー」について

ポリアモリー 複数の愛を生きる (平凡社新書)

ポリアモリー 複数の愛を生きる (平凡社新書)

 

「ポリアモリー」は直訳すれば「複数愛」であり、昨年芸能界を騒がせた浮気や不倫とは異なり、三名以上の者が相互に合意の上で築く親密な関係をいう。上の書籍では、ポリアモリーの概念、種類、アメリカでのムーヴメントの経緯などが解説されている。このような「ポリアモリー」、新聞の書評欄で言及されているのがきっかけだと記憶しているが、私が興味を引かれた理由は、学生時代に大人3人で家庭を形成するブログ記事を書いたことがあるからだ。 

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上の書籍では、冒頭でポリアモリーを扱った小説として江國香織「きらきらひかる」が参照されているが、登場人物の個人の譲れない志向が前提にあって展開される話である。他方、上記のブログ記事では、個人としての生き方、愛に対する価値観といった志向は二の次に、現代日本における経済的事情から適応的な生活スタイルとして語ったものである。衰退が進む時代、稼ぎ手1人では家計を維持できない、共働きは時間や環境面で家庭との両立に難しさがある、そこで2名の稼ぎ手と1名の家事担当者で生活を維持する、というものだ。

「草食系男子」といわれるように、性愛についてそもそも興味が薄い、淡泊な若者像が多く広がる状況もある。性愛も生活の一部として殊更忌避するわけではないが、重きを置かない、個人的な志向は「二の次」として生活を営む。契約結婚を描いた「逃げるは恥だが役に立つ」が昨年大ヒットしたように、このような角度から焦点を当てても面白いのではないか、と思った次第である。

また、上記の経済的問題は現在「働き方改革」として盛んに議論されている状況にある。この機会に解決が図られない場合にどのような現象が出てくるか、といった問題提起という側面も出てくるかもしれない。合計の収入はどれくらいで、家の広さはどのくらいで、間取りはどうするか、子供を想定した場合どうなるか、保険はどのようにかけるか、など現実問題を考えていくと楽しみは尽きない。

 

セルフネグレクト」について

セルフネグレクト」とは、自分自身の生活維持の意欲を放棄し、健康や安全を損なう状況を作ってしまうことをいう。ゴミ屋敷の例を中心に、以前から用いられてきたようであるが、最近知るに至った。近代以降の法律は、基本的に個人は自身の利益を追求し、自身にあからさまな不利益なことはしないだろう、という発想で設計されている。しかしながら、自暴自棄という言葉があるように、この前提が崩れる場合があり、既存の制度では掬われず、問題になりがちだ。色々な対策や援助は考えられており、どのような状況で陥りやすいかを知ることは、対処する上でも重要だ。

だが個人の問題としては、結局のところ、自分以上に自分のことがわかり、なおかつ責任を負える者はいない。「自分を引き受けなければならない」というのは、社会に生きる上で覚悟をすることのひとつと考えている。そして、「自分のため」というのは意外と脆くて弱い。突き詰めていくうちに「空っぽだった」と苛まれるし、意欲が衰えたときに支えられるものがない。他者や共同体との関係で自分を位置付け、義務の部分をうまく織り込みながら、自分の不安定な部分を補い、生活を続けていく。これも同じように学生時代、ミスターチルドレンの曲に合わせてブログ記事に書いたことがある。

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ポスト真実Post-truth)」について

ポスト真実Post-truth)は、昨年イギリスのオックスフォード辞書が1年を表す言葉として取り上げたもので、客観的真実より、個人の感情や願望が優先される状況を示すという。今年も1か月経ったが、世界の政治状況が語られる際に、この言葉が繰り返し使われるようになっている。事実ではなく印象論で世界全体が振り回されている。インターネットが発達して「本音」が明らかになるともいわれているが、往々にして自分のみじめさや辛さを覆い隠すために出てくる、自分自身をも偽った言辞であり、真実でも本音でもない。

悲惨な歴史の上の教訓として形成されてきた原理原則、共通理解と考えられてきたものが崩れてきて、分断して一方の層の価値観だとして敵視すらされようとしている。かといって現状の否定だけで目下の課題の解決策が出されているわけでもない。自給自足では維持できず、相互の友好的かつ安定的な関係が利益になるという大前提も、目の前のわかりやすい部分で不利だと印象を与える行動は許されなくなってきているように感じる。悲惨な歴史を繰り返すことは避けなければならない。このような状況下での処世術は、わかりやすく好意的なパフォーマンスを相手にすることである。だが、理屈を意図的に曲げるのは、時流が変わった場合に誹りを受ける覚悟なしにすることではない。戦うべき場合というものがあり、そのような動きもみられる。

翻弄されてしまいがちになるが、大元にある、再分配の機能不全などの問題の解決策を考えていかなければならない。個人的には、グローバル化と都市化は似ている感じがしていて、都市化の場合よりも能力的なハードルが高く付いていけない者が続出し、地理的な縛りがなく抑えも効きづらい、という特徴が加わったように捉えているが、これもイメージである。 

ペルソナ4 ザ・ゴールデン PlayStation (R) Vita the Best

ペルソナ4 ザ・ゴールデン PlayStation (R) Vita the Best

 

「人は真実ではなく見たいものを見る」「その象徴としてのテレビ」というテーマは2008年にオリジナル版が発売されたテレビゲーム「ペルソナ4」で扱われている。親が望む進路と反発(雪子)、自信が持てるものがない(千枝)、周囲からのイメージと自分とのギャップ(りせ・完二)などなど、青少年が悩みがちなテーマにも答えている。このゲームは私の中でJRPGの最高傑作と思っているので、紹介する。