現代社会の「五行」

現代社会での5種類の活動

人は生活の色々な場面で異なる役割があり、それに応じた振る舞いが求められる。私は、自由主義・民主主義体制の下でその共同体の構成員として必要な活動には5種類あり、個人や社会としてそれぞれの活動をバランスよく行うことが望ましいと考えている。 5種類の活動とは、以下のようなものだ。

  1. 生命・健康維持(生命体としての活動)
    食事、睡眠など生命体として健康的に生きていくために必要な活動
  2. 家庭生活(家族の一員としての活動)
    洗濯や掃除など家事、子育てや介護、祝い事など家族との関係で必要な活動
  3. 経済的活動(職業人としての活動)
    需要に応じ物やサービスを供給し、収入を得る活動
  4. 社会的・政治的活動(公民・市民としての活動)
    主権者として、日々の社会的な問題への関心と知見を得ることに努め、国や地域で行う活動
  5. 文化的活動(個人としての活動)
    芸術・スポーツ・娯楽等に触れ、精神的充足を得るとともに、共通の興味がある人と交流する活動

これら5種類に分けて考える意義は、これらのバランスを欠くと歪みが生じるということを認識することにある。自分がこれらの活動のうち何かに乏しい場合は、他者に押し付けていたり、視野に偏りが生じたりするという歪みがあり、それが集積されると社会的な歪みとしても現れる。

例えば、戦後日本の社会では、男性稼ぎ手モデルが大勢を占め、男性が経済的活動を専ら行い、過労死など生命維持すら脅かされる一方、女性が家庭生活を担わされてきた。そして、社会的・政治的活動や文化的活動について参画する意識は乏しく、個人レベルでは退職後に空虚な生活となり、社会レベルでは家庭の機能低下による少子化や政治の機能不全がみられる。

現在はワークライフバランスや一億総活躍社会といった標語で男女間での経済的活動と主に家庭生活の比重を均していこうという動きがあるが、まだまだ道半ばであるし、社会的・政治的活動や文化的活動の重要性までには意識が向けられているとはいい難い。個人として豊かな生活を送り、また共同体が安定的・長期的に発展するためには、5種類の活動をいずれもバランスよく確保していく必要がある。

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五行思想」になぞらえる

上記のように5種類のもののバランスを考えるというのは、古来からある五行思想に似たところがある。五行とは、万物は火・木・土・水・金の5つの元素で成り立っており、それぞれが相互に影響し合い、変化し、循環しているという思想である。現代でも、名付けの際にそれぞれのバランスをみたりすることがある。上記の5種類の活動を五行の元素になぞらえると、次のようになるだろう。

  1. 生命・健康維持:土。個人の活動の基盤となる。
  2. 家庭生活:木。近しい人間関係を育む場である。
  3. 経済的活動:金。財やサービスを生み出す。
  4. 社会的・政治的活動:火。市場外の問題や政治的課題解決。
  5. 文化的活動:水。人生に潤いを与えるとともに、他者と利害のない関係を育む。

そして、五行には相生(生み出していく関係)があるという。これらの関係になぞらえることもできる。これになぞらえてみると次のようになる。

  1. 木生火:家庭の基盤が社会的・政治的活動の支えになる
  2. 火生土:福祉社会の実現が個人の健康や生存の基盤となる
  3. 土生金:健康な体があって経済的活動ができる
  4. 金生水:経済的な豊かさが文化を支える基盤となる
  5. 水生木:文化的活動が家庭生活の豊かさを生む

これらのことを踏まえ、上記の5種類の活動のことを「現代社会の五行」と例えてみるとよいのではないかと考える。

私は国歌を歌う

小学生の頃、夏休み、親戚の家。九州の田舎で、響く虫の鳴き声。畳の匂いがする。襖の上に飾られているいくつかのモノクロのポートレート写真。その中で、若い男性が笑顔で写っている。私が気になって見ていると、母から説明があった。

「ああ、○○おじさん、戦争で軍隊に行って亡くなったのよ。生きていたら、きょうとか、あなたに会えて、喜んでくれたでしょうね。」

続いて祖父の家に行き、泊まる。元電気技師で、あまりお喋りではなく、感情も表に出さず、朴訥とした感じの祖父。ある夜、同じ部屋で寝ていた父と母が話す。

「お祖父さん、うなされていたみたい。」「ああ、昔から、ときどき戦地に行ったときのことを思い出して、あるんだ。」

自分の手で、また目の前で、人の生き死に関わる出来事があったらしい。

家族でこんな話題が出てくるとき、締めの言葉は、決まって次のようなものであった。

「仕方ないね。」

 

 

ある時期から、学校の入学式や卒業式で国歌が流れるようになった。私は全くためらわず、大きな声で歌っていた。今はこういう式典の機会はないが、特に変わらず歌うだろう。私の中では、先に述べた私の家族の歴史や記憶と、国旗国歌の類のものは、別のことである。

ただ、大なり小なり悲しい家族の歴史や記憶を負い、あるいはそれに接する人がいて、それを国旗国歌と結びつける人もいれば、無能な指揮官個人と結びつける人もいれば、結びつけない人もいるだろう。もちろん、悲しい家族の歴史がない人もいるだろうし、あっても受け継いでいない人もいるだろう。この国は、そんな人たちが集まって暮らしている。

 

 

高校の頃、入学式や卒業式の国歌斉唱で絶対に立たないクラスメイトがいた。彼は理系の天才肌で、数学の問題もパッと見ただけでだいたいの答えの見当がつき、そこに向かって解いていくというタイプだった。普段の口数は少なく、社会のことにあまり興味があるようにも見えなかったし、何か主義主張のあるようなタイプにも見えなかったので、意外に感じていた。

進路選択の時期、私は文系に進んだのだが、彼がこんな話をした。「お互いの場所で日本のために頑張ろうね」と。彼は大学でも1年生から研究室に呼ばれるような感じで邁進し、久しぶり検索してみると、日本の研究機関に所属し、最近もサイエンス誌に論文載せているようで、しがない月給取りに収まった私より、ずっとずっと国に貢献し、今後も続けていくだろう。

当時から今まで、私は彼にどんな事情があったのかは訊かなかった。どんな事情があったからといって変わるわけではない。どうでもいいことである。国にどのようなかたちで貢献していこうと考えるかも、人それぞれである。私は国歌を歌う。彼は歌わなかった。それだけである。

 

 

ファンタジーの効用

夏の盛り、実家に帰って、置きっぱなしだった学生時代のプリント・ノート類や書籍の片づけをした。その中から、中学生の頃から構想していたオリジナルのファンタジーの話を書き留めたメモが出てきたので、PCに打ち込んで整理した。当時好きだった地中海の歴史をベースに、異能力バトルあり、国同士の政治的駆け引きあり、時空を超える因縁ありで我ながら面白い展開で、非常に楽しい時間であった。自己完結の愉しみだけど、いつの日か形にできればいいなと思う。

そんな体験をした中で、先日、ドラクエの映画を楽しんだことを書いたのだが、インターネット上では過剰ともいえる批判に支配されていて、意外な思いをしたことが思い出された。

 

oikaze.hatenablog.jp

 

この映画では、最終バトルにおいて、ストーリー外から「なにゲームに熱くなっているんだ、いい加減大人になれ。」みたいなことを言われる展開があるのだが、これが観た人に非常に強いショックを与えるようである。映画ではこの敵を打ち破ってストーリーに戻るのだが、あまりにショックが強すぎてこれが映画の結論のように思った人も多くいるようだし、 映画で展開された敵を打ち破る理論は陳腐で納得できないと思う人も多くいるようだ。それほどショックが強くなるのは、大人が熱を入れるのはおかしいと本人も実際思っており、これに目を背けて楽しんでいて、図星を突かれたようになるからかもしれない。私が特段ショックがなかったのは、別に堂々と楽しんでよいと思っているからかもしれない。その違いとして、大人にとってのファンタジーの効用について少し考えを進めてみることにした。

ファンタジーが子供っぽいという印象を生むのは、大人は、仕事、社会や家庭における現実の問題を解決していくことが責務であるという感覚が背景にあると考えられる。空想に耽るのは現実逃避という見方になる。しかし、ファンタジーは世界観や設定で空想が入ることはあれど、ドラマが展開される以上、現実の問題と関わり合う部分が必ずあるし、人々を惹きつけるためには、違和感を感じさせ過ぎないことも重要である。表現する上で現実と空想を調和させていくという作業が必ずある。そして、その作業は、世界観の構築という大掛かりなものだ。

ファンタジーに接する上でこれらの過程に思いを馳せてみれば、現実の中で何が重要であるのか、空想で飛び越えた現実の要素を埋めるには何が必要であるのか、といった観点から考えが突き動かされ、日々の生活のアイデアの源泉になる。また、子供の頃に没入した体験を振り返り、対比するなどして、自分がどういうことに惹きつけられるのか認識するきっかけになる。そして、広く人を惹きつけていくものは何なのか、理想と現実をどのように調和させて、組織や体制を構築していくのか、といったことにもつながってくる。私自身、しばらくファンタジーから離れていると、味わいたいなという感覚になり、楽しんだ上で世界観など色々なことを考えてみると、頭がフレッシュになる感じがする。

そして、ドラクエの映画の「ユア・ストーリー」は、ドラクエ5を楽しんだことがあることを前提に、こういう展開にしたい、といったプレイヤーの希望を踏まえて進められるという世界観が付け加えられている。そこでは、単純に用意された世界に受け身で没入するだけでなく、まさに上記のファンタジーを表現する作業に加わるということでもあり、ひとつ大人側の楽しみ方が付け加わったとみてよいのではないか。

 

oikaze.goat.me

 

先の記事で、私だったらグランバニア王としての立場にクローズアップして、最終決戦でラインハットと共闘したいなということを書いた。他にも、本編でも深く掘り下げられていない「妖精の国」の成り立ちや天空世界や魔界との関係などにクローズアップして、ひとつのストーリーを展開することもできよう。

これでも納得できないのであれば、ペルソナ4ゴールデンのアニメでは、「世の中クソだ、なに青春ごっこやってるんだ。」という敵の話を主人公が論破できず殴りつけてねじ伏せるという展開だったのだが、それはそれで面白いという受け方をしており、同じように逆ギレ上等でラスボスを殴り飛ばす感じで楽しむ、ということもあるかもしれない。

ともあれ、これだけ多くの人が惹きつけられている以上、ファンタジーは単なる逃避とかではなく、ポジティブな面があるのは確かであって、その側面を考えてみるのがよいであろう。